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ジュンク堂と東急ハンズに用があり、一人でミナミに出かけた。

私は定期的に、適当に文庫本を十数冊購入しては枕元に積んでおく。

ほろ酔い加減でベットに寝転んでは瞼がどろんとするまで活字を愉しむのは、私にとって実に幸せなひとときなのだ。

その枕元の本が切れたのだ。

平日のジュンク堂は、あいかわらず空いていた。

ゆったりしたスペースで気持ち良く本選びができる。

某大型書店とは大違いだ。

本選びにさしたる趣向がないとはいえ、身銭を切っての買い物ゆえ、裏表紙の解説程度は目を通す。

最も、今回はいつもと違い、読みたい本が決まっていた。

昨年末から、私はサイト上でコラムと称するものを書き綴っている。

そこで、文章の達人たちが書くコラムとは一体どんなものかと、無性に読みたくなったのだ。

私が選んだ作家は伊集院静、椎名誠、沢木耕太郎の三人だ。

他にもコラムなりエッセイを書いている作家は知っているが、噂によると、彼ら三人はことのほか女性にモテると聞く。

そんな男たちの考えに触れ、少しは自分もあやかりたいという下心もあった。

それぞれ五冊程買ったが、一万円札でお釣りがきた。

友人を飲みに誘って、一軒目の店で消えていく金と同程度だ。

エメラルドグリーンのビニール袋をさげると、文庫本の重みで手のひらが少し痛くなる。

一晩飲み歩くのを我慢すれば、その金でこの倍の重みの文庫本が買えることだろう。

「考えたら飲み代って高いな...いや、待てよ、文庫本が安いと言うべきかな...」

一人ごちながら、心斎橋筋商店街を東急ハンズに向かった。

私のSMライフと東急ハンズには、切っても切れない仲がある。

私は可能な限りプレイの小道具は自作する。

こう書くと粋に聞こえるかもしれないが、

元はと言えば高価な小道具を揃える金がなく、必要に迫られてのことだった。

レザークラフトが主だが、これについては後日あらためて語りたい。

とにかくこの日は、クリスマスプレゼントを貰ったままになっているので、

少々遅いが自作のSMグッズでもお返ししようと、その材料を求めにいったのだ。

彼女には皮手錠を作ってあげることにした。

材料代はしめて五千円にも満たない。

コツコツ作れば一、二ヶ月後には完成するだろう。

急いで作ってしまうとどうしても仕上がりが荒くなるので、私はいつものんびり作る。

ハンズで買い物を済ませた私の両手には、それぞれ袋がぶら下がることになった。

こうなると機動性が著しく損なわれる。

さっさと部屋に帰ってその重みから開放されたいところだが、

何だかその日に限ってはうっとうしい両手の荷物を割り引いても帰る気になれなかった。

時刻は五時過ぎ。

夕暮れ時にネオンの灯が冴え始め、仕事を終えた連中が今夜はどこで飲もうかと陽気にすれ違う、そんな時間だ。

何よりミナミの街の喧騒は、キタと違ってどこか体をむずむずさせる。

と、曲げて書いてはみたものの、要するに、柄に似合わずちょっと寂しくなったのだ。

「さて、どうしたものか?」

買い物に備えて多めに金を引き出したので、飲み代は十分にある。

ついさきほど、一軒飲み屋を我慢すればこれほどの文庫本が買えるものかと感心した私ではあったが、

「それとこれとは別もんさ。人生楽しまなきゃな」

などと、とたんにO型の本領を発揮した。

「さて、誰を誘うか?」

ポケットに突っ込んであった携帯電話を取り出す。

今夜の飲み代は全て私が持つ気でいた。

収入とか年齢とか地位に関係なく、その時その時で財布の暖かい者が面倒を見る。

それが私と付き合う連中との間にある不文律だ。

年の開いた後輩が万馬券を当てたと聞けば呼びつけてドンチャン騒ぎをするし、

出費の少ない月には子持ちの先輩を寿司屋に誘ったりもする。

ギャンブルには一切興味を持たない私の預金通帳の桁が同世代の友人たちと比べて極めて低い水準にあるのは、

そんな食道楽に負うところが大きい。

「さてさて、誰を誘うか?」

そういえばあれは去年の十一月だったか十二月だったか、

鶴橋の焼き肉屋で好物の生レバとカルビを死ぬ程食わせてくれた友人がいた。

久しぶりだし、あいつに借りを返すことにするか。

そう決めて番号を押す。

出るかな?

「あっ、もしもし...」

しかし、応対したのは無機質な女性の例のアナウンスだ。

「こちら○×△番、ただ今電話に出ることができません。ナントカカントカ...」

「阿呆やなあ、アイツ。せっかく美味い寿司でも食わせてやろうと思ったのに」

さて次は誰を誘うか?

思案したが、頭一つ抜きん出る者がいない。

よし、だったら適当に決めよう。

ディスプレイに電話帳を呼び出すと、矢印ボタンを押して適当にスクロールした。

5、4、3、2、1、ストップ!!

さてさて、幸運の女神が微笑んだのは誰かな?

しかし、ディスプレイに目をやれば、そこには見慣れぬ女性の名前があった。



色気はないが仮に山田花子とでもしておこう。

山田花子、山田花子...誰だこれ?

携帯に登録されているということは面識があるはずだが、思い出せない。

知らない間に誰かが悪戯で入れたのだろうか?

いやいや、それは考え過ぎだ。

パスしても良かったが気になる。

私の思考は「誰を誘うか?」から「山田花子とは誰だ?」に変わった。

人通りの中ぽつねんと突っ立ち、五分はあれこれ思案したが、その片鱗さえ浮かんでこない。

こうなると掛けてみるのが一番手っ取り早い。

私はちょっとドキドキしながら発信を押してみた。

「もしもし」直ぐに出た。

若い女性の声だ。

「あの、○○ですけど」

「○○さん?」

そのイントネーションには、「あなた誰なの?」という響きが露骨に含まれていた。

かけて失敗だったかな...

「携帯に登録してあったんだけど、俺たちどこかで会ったかな?」

間抜けな会話である。

「携帯に私の番号が入ってたんですか?」

「そうなんです」

チッ、チッ、チッ...間が開く。

「すいません。何か失礼したようで。消しておきますから。どうも」

「はあ...」

ガチャ。

私はすっかり出鼻を挫かれ、もう今日は大人しく帰ろうかという気分になった。

「金なんていつでも使えるしな。帰ろ、帰ろ、さっさと帰ろ!!」

夕暮れ時の人が溢れる商店街、私は手荷物をさげて心斎橋駅へとぼとぼ歩いた。

あれ、ここにあったイタメシ屋潰れたのか。

今度のマクドナルドはグリルバーガーか...などとぼんやり歩いていると、不意にビビンときた。

「そうだ、思い出したっ!!きっとあの時の女性に違いない!!」

そんなに遠い話ではない。

確かあれは去年の十一月のこと、

居酒屋で隣り合わせになった女性グループにお互い酒の勢いも手伝ってSM談議をしたとき、

半ば無理矢理私の携帯に番号を登録した女性たちがいた。

その中の一人に違いない。

実に壮快な気分になった。

そして、その勢いでリダイヤルした。

「もしもし、さっきの○○です。君のこと思い出したよ。俺たち、去年うつのみ屋で隣り合わせになってSMの...」

「はいはいはい、あの時の...」

それから十分ほど世間話をしただろうか。

どうせ来ないだろうと思いながらも、当初の予定通り彼女を誘ってみることにした。

「時間あるんだったら、ちょっとご飯でも食べない?」

飲まない?と誘うのが正しいが、これは私なりのマナーだ。

「今、何処にいるんですか?」

「心斎橋」

「じゃあ、七時頃になりますけど」

「えっ、来てくれるの?」

「ええ」

「じゃあ山田さん、最寄りの駅ってどこなの?」

「上新庄ですけど」

「だったら梅田にしない?」

そんな訳で、私たちは急きょ梅田で落ち合うことになった。



梅田に向かう地下鉄の中、私は彼女たちと出会ったときの状況を思い出そうと努力した。

どんな女性たちだったかな?

どんなSMの話をしたっけな?

しかし、話の内容はおろか、その顔さえ浮かんでこない。

ちょっと酔ってたからなあ。

でも、待ち合わせ場所で目の前にいて気付かなかったら失礼だな。

誘ったの俺だしな。

もっと人の少ない場所で落ち合うべきだったか...

私は一向に甦らない記憶の糸をたぐるのを諦めてそんなことを考えていた。

そして待ち合わせ場所。

関西人御用達である阪急梅田のビッグマンだ。

水曜だが、夜の七時とあってそれなりの人だかりだ。

とりあえずは目立つようにスクリーン下に立とう。

と、その時、私に微笑んだ一人の女性がいた。

彼女か?

私はゆっくりと歩み寄った。

「あの、山田さんですか?」

いや、これはよそう。

誘った私が顔を覚えていないでは後の会話に影響する。

ここは自信を持つべきだ。

「どうもこんばんは。お久しぶり!!」

内心は博打的な気分ながらも、元気よく声をかけた。

「どうも、お久しぶりです」

本人だった。

良かった。

私は胸を撫で下ろしたが、以外にも大人しそうな雰囲気なのには驚いた。

何も悪い意味ではないのだが、さっきの電話と少々イメージが違ったのだ。

「俺、寿司が食べたいんだけどいい?」

半ば強引に寿司屋に招待した。

私たちはカウンターに座った。

ちなみに、私は寿司屋ではカウンターしか座らない。

「いっぱいだからテーブルでもいい?」と仲居に言われれば、さっさと店を変える。

団体で寿司屋に行くということもない。

私たちは生ビールを頼んだ。

季節柄、熱燗で酌でもしてもらえば寿司の味も一段と美味くなるだろうが、

彼女にそこまで期待するのは酷な話だ。

さらに語らせてもらうと、私は瓶ビールというものが嫌いだ。

あんなちゃちなコップでせこせこ飲んでも美味くも何ともない。

コップに「アサヒビール」などとロゴがあるのも好きじゃない。

どうもおっさん臭い雰囲気がする。

やはり、ビールはジョッキで豪快にやるに限る。

出てきた生ビールは、冬とはいえちゃんとジョッキが冷やされている。

やっぱりこうでなくちゃな。

チンと乾杯して一口で三分の二ほど空けた。

さて、何を話すか?

以前の続きで軽くSMの話か、それとも世間話から入るべきか。

彼女を口説こうとかそういう魂胆で誘ったわけではないけれど、そこには先方の思惑というのもある。

前のようにSMの話をしたくて誘いに応じたのなら、世間話など、例えそれが面白可笑しいものであっても退屈だろう。

私はちょっとカマをかけてみることにした。

沈黙で重たい空気が流れる一歩手前まで口を開かずに、彼女が何か喋るか試してみた。

しかし、彼女は口を開かなかった。

私は折衷案ということで微妙な世間話を選んだ。

「そのマニキュア綺麗だな...」

なぜそんな話になったのか今となっては定かでないが、

店に入って三十分程が経ち、彼女の前にサザエのつぼ焼きが運ばれた頃、

私たちは沖縄の話ですっかり盛り上がっていた。

何かの拍子に、お互いが大の沖縄好きであることが知れたのだ。

その昔、私は一月かけて沖縄を放浪したことがあるので、地理やらB級グルメにはそれなりに詳しい。

「オクマビーチから少し離れた所にやんばるくいな荘というのがあってね、そこは一泊で3、500円なんだよ。

けれど素泊まりなんかじゃないぜ、食事も朝夕ちゃんと付いてるんだ。

そのやんばるくいな荘の食事がもう最高でね。○○さん、マンボウの肝って食べたことある?

え、ないの、そりゃあ不幸だ。その味ときたら....」

美味い寿司に酒、そして彼女の笑顔も手伝って、決して話上手とはいえない私もついつい饒舌になり、

気が付けばトイレもままならぬ程に杯を重ねていた。

二件目は焼き鳥屋に行ったが、何を食べたのか、何を話したのか、どちらが払ったのか全く思い出せない。

三件目は喫茶店だったか、ラーメン屋だったか?

ただ一つはっきり覚えているのは、私が電柱の傍らでゲーゲー吐いているときに、

彼女が優しく背中を撫でていてくれたことだ。

私の為にタクシーも拾ってくれた。

別れ際、「今度は私が誘いますから」と言われたような気もすれば、

「もう二度と誘わないで下さい」と言われたような気もする。

タクシーの中、宙に体が浮いたようで気分で流れる景色をぼんやり眺めていると、

何やらジャンパーのポケットあたりが冷え冷えして重みがあるのに気が付いた。

何だろう?

手をやると、そこにはポカリスエットがあった。

きっと彼女が忍ばせたのだ。

男って単純だからこういうのには感動する。

彼女はきっといい嫁さんになるよと、一口にそれを飲み干した。

さっきの酒よりも数倍美味いのは皮肉なもんだ。

あれ?

その時私はハタと気が付いた。

本来ならそこにあるべきはずの十数冊の文庫本とレザークラフトの材料が無いのだ。

さっきの電柱の傍らに間抜けにも置き忘れたのだろうか?

随分ともったいないことをした...。

それでも、シマッタ!!と悔いたのはほんの一瞬で、

根が楽天家の私は、「また来週買いに行けばいいや」と小さく呟き、

そのまま睡魔にまかせて目を閉じた。


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