GWも後半にさしかかったその日、玄関の扉を開けると、そこにはもう夏の香りがあった。
思いのほか強い日差しに一瞬目をしかめる。
ついこないだまでは桜が咲いていたというのに、季節の移り変わりは人間が思っている以上に早い。
「この服では少々厚手だろうか?」
そう思いながらも徒歩で駅に向かった。
中型のリュックが程よい重さで背中を圧迫する。
両肩に食い込むストラップの感触が懐かしい。
「俺の装備も随分と軽くなったもんだ」
昔は、二十歳前後の私は、なにかと無駄な荷物が多かった。
小遣いを割いて買った道具たちを置いていくのも可愛そうとあれこれ詰め込んだり、
本を何冊も忍ばせたり、一眼レフ一式を用意したり、手作りの食事に凝っていたので具材を持って行ったりした。
そんな道具たちも年月と共に淘汰され、今では必要最低限のものしかリュックに詰めないようになった。
一人の時は食事も一から作るようなことはもうあまりしない。
今では缶詰めやレトルト中心で、せいぜい米を炊くぐらいだ。
あまり作業を増やさずに、野宿ではのんびりしたいといつしか思うようになった。
生卵まで用意し、一人山奥でスキヤキを作っていた私は一体何だったのだろうか?
今思えば、「こだわる」という意味を勘違いしていたようにも思える。
やはり、若かったということか。
もう一度あの頃に戻りたい気がしないでもないが、どうせ同じことをするだろう。
本を愛し、食を愛し、そしてM女性を愛する...
もっとも、食を愛すると偉そうに言ったところで、私の場合専らB級グルメであり、
フランス料理店に行った回数など、いまだ片手で足る。
本にしてもそうだ。
本物の読書の虫というのは、私の比ではないだろう。
自信をもって言えるのはM女性を愛するということだけか。
けれど、これに比べれば読書も食も取るに足らないように思える。
やはり私は幸せなのだ。
駅に着いた頃には額に汗がにじんだ。
上着を脱いでリュックにしまう。
しかし、今はお邪魔なこの上着も夜になれば重宝するだろう。
山奥の夜は夏でも冷える。
缶コーヒーを買い、煙草を吸いながら電車を待った。
やはり、夏の香りがした。
電車を乗り継ぎ、亀岡駅に着いたのはちょうど10時だった。
ここから徒歩で保津峡駅に向かうのだ。
駅から駅に向かうと書けば、あまり自然な感じがしないかもしれないが、
JR保津峡駅というのはちょっと特殊で、峡谷の中にポツンと存在する駅なのだ。
私としては景観にそぐわないこんな駅など必要ないと思うのだが、とにかく場違いにそこにあるのは事実だ。
峠道に入る前に駅前のコンビニで食料を買い込んだ。
さんま蒲焼き、ほていの焼き鳥、チキンラーメン、冷凍枝豆、サラミ、牛舌、サーモン、ナッツ、チョコレート、その他諸々...
そしてボンカレー。
今時ボンカレーよりも美味しいレトルトはいくらでもあるが、私にとって野宿のカレーとはボンカレーでなければならない。
お袋の味があるように、野宿の味というものがあり、私にとってそれはボンカレーであり、さんま蒲焼きの味である。
スーパーなどありそうもない山間の集落には、雑貨屋兼食料品屋兼酒屋というのが一軒は必ずあるものだ。
軒先にはいまだ専売公社の看板があり、「お酒あります」の手書き文字が旅愁をそそる、そう、あの店だ。
男なら、誰だって一度はお世話になっているはずだ。
そんな店にはどこだって、食料品棚の一番下に、
2,3年前からそこに鎮座しておられるのではないかというボンカレーとさんま蒲焼きの缶詰めがひっそりと置かれていたりする。
ホコリをかぶっていようが、缶の淵が錆びていようが一向に構わない。
ましてや、それらをくるりとひっくり返して賞味期限を確認するなどあるまじき行為といえる。
ただそこにあるだけでも感謝しなければならない。
腹を減らした夕暮れの山村で、食料にありつけた時の喜びとはそういうことだ。
こういう店では例によって大声で「すいませーん」と叫ばなければならない。
それでもすぐに出てきてくれればラッキーで、中には待てど暮らせど反応のない店もある。
そういう場合はちょっと多めに100円玉を置いていくことになる。
なぜ多めかと言うと、中には定価に若干の輸送費等を加算している店があるからだ。
私はこういう場合、ボンカレーとさんま蒲焼きは昔から一律200円としている。
ちょっと割り高だが、一旦山に入ればお金さえもただの荷物なので損した気分にはならない。
随分話が逸れた。
で、食料を調達した私はちょっと重みの増したリュックを肩に、JR保津峡駅に向かってえっちらおっちら歩き始めた。
駅から歩くこと約30分、峠道に入ると木々に太陽が阻まれ体感温度が2,3度下がる。
夏の暑い盛りに来るには絶好の場所なので、友人たちと一緒によくキャンプにも来る。
私にとってはまさに軽井沢的存在の場所なのだ。
今夏にも何度かお世話になるだろう。
横を流れる清流の音が心地よい。
時々、場違いな音楽を響かせた四駆が通り過ぎる。
狭い道なので、そのたびに私は道を外れて待機しなければならない。
こんな素敵な峠道を清流の音も楽しまず足早に通り過ぎて行くなんて、何ともったいないことか...
加速していく車のテールにそう言ってやったが、
そんなある時、驚いたことに「お乗りになりますか?」と声を掛けられた。
どでかいパジェロの車内を見れば大学生風の女性ばかりが5人乗っていた。
想像するに、この中の誰かの買ったばかりの新車で、GWに皆をドライブに誘ったのだろう。
この日、私はバンダナをワイルドに巻いており、その後ろ姿が男らしくて、
「ねえねえ、ちょっと声掛けてみない!?」なんて、車内で盛り上がったに違いない。
「ありがとう、じゃあ保津峡駅まで...」と車内に乗り込めばちょっとは色気のある話も書けたのだろうが、断った。
このまま清流の音を聞きながら歩きたかったし、
なにより、私はサイトを通じて知り合ったM女性たちを本当に大切にしてやりたいと思う反面、
それ以外の女性には結構冷たかったりする。
そうすることで自然に付き合いのバランスがとれているのだろう。
そんなわけで、パジェロのガラガラ唸るエンジン音が遠ざかって行き、また静寂が戻った。
サラサラという透明な音を耳に再び歩き始める。
ところどころで釣り糸を垂れている人がいる。
ここではアマゴが釣れるのだ。
私も何度かチャレンジしたことがあるが、稚魚が一匹釣れた、というか引っ掛かっただけだ。
今日は釣り道具を装備していないので、横目で見ながら通り過ぎるしかない。
途中、水尾という集落がある。
ここは避暑とユズの町として知られていて、旅館などもある。
ユズ風呂と鍋が楽しめるそうで、今は病床の母も度々訪れていると言っていた。
惜しむらくは、ここに3,4件ある旅館は泊まりができないのだ。
山々を見渡せる旅館の室内で緊縛すればさぞかし麻も映えるだろうなと、
のどかな山村でちょっと淫美な妄想にふけったりした。
JR保津峡駅に着いたのは午後3時を過ぎてからだ。
GWということで駅には多少活気がある。
ここでこれだけ人を見たのは初めてのことだ。
売店で500mmの缶ビールを5本買うといっきにリュックが重くなる。
さて、ここから駅のホーム端のフェンスをよじ登って秘密のルートに行きたいのだが、
いつもは無人のこの駅もさすがにGWともなると駅員が駐在している。
仕方がないので200円程のキップを購入すると、改札を通りホームの端に向かった。
そこには家族連れがいたが電車が来るのまで待つのももどかしいので、
私は気にせずフェンスをよじ登った。
フェンスの頂上で向きを変えると、親子揃って呆れたように私を見上げている。
「無茶しよんな〜」
そういう声が聞こえた。
「無茶をするのが男なんだよ」
内心そう答えると、駅員が来ないうち忍者のごとく山中に姿を消した。
ほどなくしてトロッコ列車の通る線路上に降り立った。
こんなところによく線路を敷いたなあと、崖下を流れる保津川を見下し感心する。
時折、保津川下りの船が急流を滑って行くのが見える。
目ざとく私の姿を見つけた観光客が手を振ってくるので、私も応えた。
ちょっと立ち止まって辺りを眺めれば、山々の緑が新鮮で眼にまぶしいくらいだ。
人間、こういう景色を月に一度は見なくちゃなあ...
このルートには難関が二ヶ所ある。
一つはトンネル、もう一つは橋だ。
いづれも、その途中で列車に遭遇すると悲惨なことになる。
GWだからトロッコ列車も増発しているにちがいない。
私はトンネルの入り口に着くと、そこで列車を待った。
案の定、それは5分も経たないうちにやって来た。
私の姿を認めた機関士が狂ったように警笛を鳴らす。
ピーーッ!!といういかにもトロッコ列車らしい甲高い笛の音が峡谷にこだました。
列車はそのまま停車して私を注意しに機関士が降りてくるのではないかと思う程に減速する。
「やばいな、線路上を歩いているのだから何かの法律に引っ掛かるんだろうな。
これって列車妨害かな?捕まったら罰金いくらだろうか?」
そんなことがちょっと頭によぎったが、列車はそのままのろのろとトンネルに入って行った。
「何でこんなところに人がいるの!!」という顔で客たちが窓から頭を付き出し私を見る。
「ガンバレー」と熱烈な声援を贈ってくる中年女性たちがいたので手を上げて「オウッ!!」と答えたら、
車内で何やら盛り上がっている。
しかし、何を頑張れというのか?
列車からお菓子の箱がニ,三飛んできたので、遠慮なく頂戴した。
列車が通り過ぎるのを待ってから、私はマグライトを手に後を追った。
中の空気はひえ冷えとして気持ちがいい。
暑い夏の盛り、枕の下に手を突っ込むのは涼しくて気持がいいな...
トンネルを駈けながら、何故だかそんなことを思い出した。
そうして、無事第一の難所を抜けたが、ほどなくして橋がある。
ここから落ちれば50m程落下してあの世行きは間違いない。
橋の手前でまた列車をやり過ごした。
身を隠せればいいのだが、右は峡谷、左は崖なのだ。
列車がやって来ると、再び狂ったように警笛を鳴らされた。
また一年来ないから今日のところは勘弁してくれ。
列車が橋を抜けたので私も後に続く。
枕木はスケスケなので、横の金網の上を歩くしかない。
一歩足を踏み出すたびに朽ちた部分が抜け落ちはしないかと汗が吹き出し、心臓がバクつく。
金網の隙間からは保津川の流れがよく見えた。
あまり慎重に歩んでいると次の列車が来てしまうので、宙に浮いたような体を急がせた。
頑張れ、俺!!
もう少しだ、もう少し!!
橋を過ぎればそこにはパラダイスへの入り口があるのだ。
この素敵なパラダイスは私が見つけたのではなく、その昔、釣り好きの友人に教えてもらったのだ。
そもそも、偶然に発見するような場所ではない。
その友人もまた、誰かに教えてもらったのだと言う。
最初に見つけた人は凄いな。
そこは魚たちで溢れ、澄んだ清流はうかつに足を突っ込むと水深を誤り、
そのままザブンと水中に体を持っていかれる。
蝶が多いのも特徴で、ここは中南米かと錯覚することもあれば、
けったいな昆虫にごそごそ顔を這われては昼寝の邪魔をされたりする、そんな場所だ。
今では何人がこの場所を知っているのだろうか?
こうして書いてしまったが、これだけではまず分らないだろう。
とにかく、私は二つの難所をクリアして無事パラダイスの入り口に着いた。
ここからはいわゆる沢登りだが、命を危険に晒すようなことはもうない。
それでも慎重に歩を進めると、時折、清流の中の黒い影が岩場の下にもぐり込む。
アマゴかヤマメだろう。
釣り上げて焚き火であぶれば最高の肴になるが、今日は無理だ。
今回、釣り道具を諦めた代わりに文庫本2冊、原稿用紙と国語辞典、
そしてケンタッキー・バーボンを一本持ってきた。
こんな場所で酒の切れた野宿など、想像しただけでも恐ろしい。
時には腰まで流れにつかりながら、時には苔むした岩場に足を滑らせながら、
30分程登っていつものポイントにたどり着いた。
そこはちょっとばかり開けた場所で、かつ、地面がフラットなのだ。
これだと、夜眠り易い。
時計を見れば既に5時を過ぎており、人里離れた山中には夜の気配がぼちぼち忍び寄っている。
辺りが暗くなる前に、私にはやらなければならない仕事がたくさんある。
先ずは流れのゆるい場所を見つけては石を積み、流れを堰止める。
さて、これは何のためでしょう?
男性ならわかるかな。
そう、それはいわば天然の冷蔵庫で缶ビールを放り込んでおくんです。
ちゃんと石を積んでおかないと缶ビールが流されて泣くに泣けない状況になるので、石積みの作業は慎重に行う。
そこに缶ビールを丁寧に並べると、まだ陽の光は残っていたが、
コールマンのランタンを点けてツマミを最小に絞っておいた。
次は薪集めだ。
野宿に出て焚き火を楽しまなというのは、夏の居酒屋で生ビールを頼まないに等しい。
朽木を集めては頃合のいい長さに手刀でブチ折った。
それが終わると焚き火用の穴堀りだ。
帰り際には穴を埋めて余った薪やら炭を再び自然に戻す。
ゴミも埋めるが自然に戻らないものは絶対に埋めない。
これは焚き火人の最低限のマナーである。
これが済むとやっとテントの設営だ。
私が愛用しているのは石井スポーツのゴアライトで、五分もあればねぐらが出来上がる。
テントに潜り込む頃にはかなり酔いも回っているだろうから、シェラフやマットなどもあらかじめセットしておく。
夜中に喉も乾くので、水筒に清流を汲んで枕元に置いた。
シェラフにくるんであったバーボンの瓶は焚き火の側にそっと横にする。
食材を全てブチまけると、ささやかな宴の肴を選んだ。
これでようやく一段落だが、まだ陽が少し残っているので焚き火には早い
清流の冷蔵庫から1本取ると、岩場に腰かけて栓を抜いた。
よく冷えている。
喉に流し込むと実にうまい、うまい、うま過ぎるーーっ!!
と、まあこれでその時の私の感動が少しは伝わるだろうか?
貴重な缶ビールだが、惜しげもなく二口で飲み干した。
ちょっと寝転んでみる。
心地よい疲労感だ。
名も知らぬ鳥の鳴き声が近くで聞こえる。
「やあ、今夜は一緒だな」そんなことを言ってみた。
そして、三曲ほど一人カラオケを楽しんだ。
歌ったのは「つなみ」、「Let it be」そして「My heart will go on」だ。
ちなみに私は歌が下手で、そのせいか鳥もどこかに飛び去ってしまった。
さて、ぼちぼち始めるか。
一人ぼっちだが最高に贅沢な宴を。
薪にホワイトガスを振りかけて擦ったマッチを放り込めば一発着火だ。
一瞬、2mほどバッと炎が上がり、辺りを強烈に照らした。
大自然の中、清流のせせらぎを聞きながら酒をチビチビ飲み、
焚き火の炎を眺めてはあれこれ想いを巡らせるのが好きだ。
その夜、私はM女性の方々から頂いたメールを頭の中で一通ずつ読み返した。
時々、思い出したようにサラミをかじってはバーボンで喉を焼く。
そうして焼けた喉に、よく冷えたビールを流し込む...くうっ、最高!!
心地良い酔いも手伝ってか、気が付けばそれはこれから受け取るであろう未来のメールの内容にいつしか移り変わり、
暖かく燃える焚き火の側、私の夢想は星々の輝く満天の空をどこまでも駈けて行った。
shadow
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