shadowからの教え

最近知ったのだが、円山公園の一角に凄い日本料理屋があったのだな。

円山公園といえば祇園や清水寺と並び枝垂れ桜で有名なTHE京都的な場所だが、俺にとっての円山公園とは決して観光地のような華やかな場所ではない。

それを一言で表現すれば、「夢破れて円山公園あり」といったところか。

というのも、俺が二十歳前後の頃「今夜は帰宅すまい」との決意を胸に金曜日や土曜日の夜、よく友人と京都の町に意気揚々と繰り出した。

すなわち、その夜知り合った女性と朝まで過ごそうというわけだ。

もちろん朝まで飲み明かすとかいう意味ではない。

そんな欲望の夢が見事に破れて向かったのは決まって円山公園だ。

ベンチがあるので、そこで朝まで寝るのである。

春でも花冷えする京都の夜気に何度骨まで冷やしたことか。

夏なら寒くはないのだが、その代わりに蚊がうじゃうじゃと寄ってきて、これはこれで寒さ以上にうっとうしい。

これがキタなら中ノ島公園や扇町公園、ミナミには適当な公園がなかったので映画館に入った。

もちろん毎回失敗ばかりではなかったので、とりあえず若く猛った性欲もある程度は満たされた。

青春というよりも性春。

それから遙かに時は流れて今現在でもこういうSMサイトを運営しているということは、俺の性欲は相当に強いのだろう。

これは男にとって決して悪いことではない。

むしろ全ての生命において最も大切な仕事である種を残すという能力に長けた雄として誇らしいことである。

ただし、俺の場合は性欲を我慢するということを知らず、かつ、またその表現手段があまりにストレートなのだ。

けれども、まあ、いいではないか。

少なくとも死を前にして「もっと遊んでおけば良かった」などという後悔とは全く無縁に生きてきた。

こういうサイトを運営していると、女の喜びを知らないままに歳を重ねてしまった女性から少なからずメールが届いたりする。

そんな女性には「もっと遊べ」「SMに興味があるなら一歩踏み出してみろ」と俺は言いたい。

既に当サイト上では何度も書いたが、晩年に人が最も後悔するのは過去の失敗ではなく、行動しなかったことや挑戦しなかったことであるとあちこちの本に書いてあるし、俺もそう思う。

この言葉、決して忘れないで欲しい。

命とは燃やすためにあるのだ。

「存分に生きた」とは、どれだけ長生きしたかではなく、どれだけ与えられた命を熱く高く大きく燃やしたかだ。

命とは、後生大事にしながらマッチ火のようにチビチビと灯すものではない。


SMとは全く関係ないことではあるが、少しだけ触れておきたい。

なぜ俺が上記のように言い切れるのか、それは俺の行動指針の根底にある人生観にある。

確かに人の命は有限だが、その魂は決して消滅することはない、というのが俺の信じるところだ。

我々は永遠に続く存在の中、今かなり特殊な時間を過ごしている。

俺の造語ではあるが、それは物質期と呼ばれるべきものだ。

せっかくの特別な時間なのだから大いに物質的な喜びを追求すべき、というのが俺の人生観である。

よって、俺は強欲は否定しても欲は肯定する。

ただし、この考え方には注意が必要だ。

物質期が終わって次のステージに行けばそこには秩序、つまりは階級というか階層というか、とにかく一定の序列が存在する。

その序列を審査するための期間が物質期でもある。

なにぶん物質期には苦難や誘惑が多いので、魂を審査するには打ってつけの場所だ。

審査基準はただ一つ、どれだけ徳を積んだか、言い換えればどれだけ地球や人類や社会や人々に対して奉仕したのか、役に立ったのか、この一点のみ。

どれだけ財を成したとか、どれだけ高名になったとか、そんなことは一切関係ない。

そうやって決定された魂の序列が、この先、未来永劫続く。

なぜならば、次のステージでは何の苦難も誘惑もないので誰かの役に立ったりすることができないから。

あなたが奉仕できるのは今のこの世界だけだ。

よって、俺のように欲を肯定するのはいいのだが、この真理を知らないで己の欲だけ満たしてばかりいると次のステージでは上にいる人々を羨み続けるハメになる。

特に下の階層に位置された傲慢な性格の魂にとってそれは無限に続く苦痛となるだろう。

これは誰に聞いた話でもないが、幸い俺はこの世でそれを悟ることができた。

今回特別にここで公開した次第。

shadow

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