タイトル:SM的文学ノススメ
「O嬢の物語」が読んでみたくなったのと、サイト上で書いている小説においてそろそろ濡れ場を書かなければならなくなったのと、半日ほど自由な時間ができたのとが重なって、三月のある日、活字におけるSMの世界について勉強しようと、例によってジュンク堂に出向いた。
先ずは館淳一や睦月陰朗などのSM作品に目を通す。
売れっ子といわれている彼らではあるが、あまり興奮しなかった。
理由は簡単だ。
それらストーリーが商業ラインに乗せられた空想の産物に過ぎないことを知っているから。
普段からM女性の生の声を聞かせてもらっている俺には、尚更にそう感じられた。
彼女たちのメールはプロの筆による文章よりも遥かに生々しく俺の本能を直撃する。
例え露出やアングルが悪くても、プロの撮るエロ写真より、素人の投稿写真の方が遥かに興奮するのと理屈は同じだ。
じゃあ、SM小説はダメかというと、そうでもない。
次に古典派の作品を読んでみた。
団鬼六はあまりにメジャーだが、俺が選んだのはもっとマイナーな作家の作品だ。
棚に並んでいるのは前から知っていたが、今まで手に取ったことはなかった。
すると、これが実にいい。
いや、感動した。
中でも検閲が厳しかった頃の作品は群を抜いて素晴らしい。
健一はついに我慢出来なくなって先生の股間に顔を埋めた。
「だっ、だめよ、健一君、先生にそんなことしちゃ...」
「でも先生、僕、我慢できないんだよ」
健一の息をストッキングとパンティー越し感じると、甘酸っぱい香りが漂った...
これが、まあ最近の表現。
これは言葉のエロとでも言おうか。
ところが昔は検閲が厳しくて、こんな会話表現はとてもじゃないが出来なかった。
じゃあ以前の作家はどこで勝負したかと言うと、徹底してシチュエーションこだわって書いていたようだ。
例えば...
戦争から帰ってきた夫が久しぶりに妻を抱いてみると、手が自然に背中に回ってきた。
それどころか下から腰を突き上げてくる。
以前にはなかったことだ。
これを不信に思った夫は疑心暗鬼と嫉妬にかられ、サドの血がふつふつとたぎってくる...
性行為そのものは最近の作品のように事細かに描かれていないものの、そこには言葉に頼ることのない圧倒的な情緒がある。
特に俺のように緊縛が好きな方には、この素晴らしさは必ず分かると思う。
昔のSM作品にすっかり心を奪われた俺は、更にあれこれ探してみた。
すると松井○子(○は旧漢字で変換できなかった。竹冠に左が「束」、右が「力」の下に「貝」)の「淫火(昭和28年)」という作品の存在を知った。
「小百合夫人はもっとひどい痛さを望みながら、足をこすりつけて、半裸体になって、ひとりで縛られた縄のゆるすかぎりで身悶えた。中天の月が、此の美しい自然の生贄を冷たく見下ろしていた」
この小説は、芦屋にある豪邸の令夫人である小百合が体の奥底で疼くマゾ的な感情を抑えきれず、不良少女に変装して新世界に出かけるところから始まっている。
-北原童夢氏の記した「淫火」紹介文より抜粋-
芦屋というのは関東で言うところの田園調布である。
どうやらこの小百合夫人は自縛したようだ。
「新世界」という言葉も私をワクワクさせる。
この後、小百合夫人は一体どうなるのだろうか?
気になる。
こういう風にシチュエーションで勝負しているだけに、エロ小説というよりは文学の香りがする。
そして、この作品の特筆すべきは作者が女性であること。
同じ妄想にしても、男性と女性のでは全然受け止め方が違う。
他にも調べてみたら当時アナルにこだわった羽村京子、拘束にこだわった古川裕子なる女流SM作家がいた。
(その他昭和後期では山田詠美、丸茂ジュン)
残念ながら、これらは全て内容の紹介のみにとどまり、出版社などは紹介されていなかった。
絶版なのだろうか?
ということで、この日は在庫がなく「O嬢の物語」こそ買えなかったものの、素敵な発見があった。
今度暇が出来たら中央図書館にでも行って、更に昔の作品に触れてみたいと思う。
皆さんも一度目を通されてみてはいかが。
shadow
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