タイトル:進化するということ

昨夜、「日本の若者たちへ」と題するビル・ゲイツの基調講演がBSで放送されていた。

立教大学で行われたもので、学生たちはとても熱心に(同時通訳に)聞き入っていた。

その内容はといえば、一貫して「輝かしきコンピューター社会」というものだった。

巨大ソフト会社の会長ゆえそれは当然の内容だが、彼ほど影響力のある人物になると、空想SF映画じみた話でさえそのうち実現するのではないかと思える程の真実味を帯びる。

しかし、そんなテクノロジー化された高度なコンピューター社会の話を聞くにつれ、俺は著しい違和感を覚えた。


先日、友人がマウンテンバイクを買った。

バイクとは言うが、それはオフロード用自転車のことだ。

気心の知れた仲なので、俺はそれを一日拝借して山に出かけた。

デコボコの、道とは呼べないような道を進んでみると、俺のマウンテンバイクとは比べものにならない程の快適さでグングン前に出る。

それも当然で、友人のバイクにはサスペンションが備えられている。

そのサスが地面からのショックを吸収し、デコボコの振動が体に伝わりにくい仕組みになっているのだ。

「なんと素晴らしい乗り心地か!!」

ちょっとしたカルチャーショックを覚えながら、時間を忘れてデコボコ道をかっ飛ばした。

と、そんなある瞬間、前輪がスコンと落ちたような感覚に陥った。

何や?

調べてみると、どうやら油圧のサスペンションが壊れてしまったらしい。

いろいろ悩んだが俺に直せるはずもなく、結局肩に担いでふもとまで降りるハメになった。

肩に食い込むバイクの重みを感じながら、俺は道中しみじみ考えた。

「進化って一体なんや?」

文明が生んだこのハイテク自転車も、ひとたび壊れてしまえば俺には手に負えない代物だ。

少なくとも俺のマウンテンバイクなら破損しない限り全ての故障は自分で直せる。

「進化とは単純化することではないのか?」

「進化とは部品の数が減ることではないのか?」

「進化とは修復しやすくなることではないのか?」

ふもとに降りる頃には、そういう結論に達した。

これは何も自転車に限ったことではない。

昔の製品というのは何にせよ自力で直せたものだ。

中にはそれなりの器用さと知識が要るにせよ、少なくとも個人レベルで何とかなる門戸は開かれていた。

最近は洗濯機でさえコンピューターを搭載してそれはそれで便利だが、ひとたび故障してしまうと手に負えないのも事実だ。

売るためだけの付加価値を果たして進化と言えるのか?

その自転車の一件を思い出した俺は、ビル・ゲイツの描く輝かしいコンピューター社会を聞きながら、「それは大いなる退化だ」とTVの前で呟いた。


こんな話も思い出した。

ある白人男性がインディアンの村を訪れた。

男:「昼間からそんなにのんびりしてられるなんていいね」

イ:「・・・」

男:「でも、それでいいのか?」

イ:「何のことを言っている?」

男:「働かなくてもいいのか?」

イ:「働いてどうする?」

男:「一生懸命に働いてお金を貯めるのさ」

イ:「金?金を貯めてどうするんだ?」

男:「金を貯めれば利子がもらえる」

イ:「利子?利子をもらってどうする?」

男:「そうすれば働かずにのんびりできるじゃないか」

イ:「もうしてるよ」


俺の調教風景を見たところで、第三者には画期的でも刺激的でも何でもないだろう。

むしろ「shadowの調教とはこの程度か」と感じるに違いない。

縛り方一つにしても、昔の複雑な縛りから、今ではシンプルな縛りを好むようになった。

達人の技ほどシンプルで無駄がないという。

それは素人に「俺にもできるのでは?」と思わせる程だが、やってみれば実際はその足元にも及ばない。

もちろん俺はこの道の達人ではないが、俺の理想としている進化、すなわち単純化の方向へと向っているのは確かだ。

調教しない調教、されど調教。

その可否は別にして、これは俺の永遠のテーマだ。

shadow

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