9/12
今すぐにご主人様のお傍に行こう、そればかりを考えていた。
窓の向こうから、凄まじい暴風雨の気配。
それでも、大阪の町が動き出す頃までには、到着するだろう。
ジーンズに足を通し、Tシャツに着替える。
上着はやはりウインドブレーカーだろうな、とクローゼットの扉を開いた。
・・・でも、何を伝えればよいというのだろうか?
・・・私には、言葉がない・・・
先程の気持ちが、切羽つまったものであっただけに、その考えは、私を呆然とさせた。
無意味、なんだ。
むなしさが、私を支配し、ひざを抱えたまま、PCの白い画面を睨みつける。
1時間がそうして経ち、白かった画面は、当の昔に、スクリーンセイバー用の、
海底のさんご礁の合間を、熱帯魚たちが泳ぎ回る姿に変わっていた。
電話が鳴った。
ご主人様だ。
こんな時の電話は、ご主人様からでなければいけない。
飛びつくように、受話器を手にする。
はい。
寝てるところ悪いな。
緊急だ。
人手が足りない、すぐ出られるか?
・・・、深いため息を一つ。
仕事のために、着替えていた訳じゃないんだけどな、と苦笑交じりにつぶやく。
バケツをひっくり返したような勢いの雨の中、黒いワゴン車に乗り込み、エンジンを掛けた。
午前3時。
豪雨の中、アクセルを踏み込んだ。
9/15
親しい友人と会った。
お互いに休日が噛み会わず、半年振りとなってしまったが、
顔を合わせてしまえば、半年のブランクなんて何のその、時間は、一気に高校時代まで遡ってしまう。
そんな親しい友人だ。
白いワイシャツ姿の初老のマスターが、とても美味しいコーヒーを入れてくれる。
あの頃と少しも変わっていない店で待ち合わせ、
炭焼きコーヒーをすすりながら、半年分の近況報告に夢中で過ごした。
そうして40分が過ぎた頃、突然、しばらく会わない間に、涼子変わったね、と彼女は言った。
そう?
何処が変わった?
自覚症状の無い私は、困惑を隠せなかったが、中学時代から、ずっと私を見ていた彼女の目に、
今の私がどのように映っているのか、興味があった。
「ん、雰囲気、物腰・・・かな」
「??わからないよ、自分では変わっていないと思うけれど」
「そう?すぐに分かったよ。話をしていて確信したのだけどね。
リラックスして見える、前のように”私は頑張ってます”って感じが無くなったかな。
・・・何かを捨てちゃった感じがする」
「それって、いい意味?悪い意味?」
「褒めてるつもりなんだけど。で、何を捨てたの?」
「さあ、なんだろうね」
昔馴染みの友人の観察力は、侮れないな、と思う。
何を捨てたのだろう?
その答えはすでに手の中にあった。
でも、リラックスって、そんなに肩ひじ張ったように見えていたのだろうか?
完璧に演技していたつもりなのに。
流れてゆく時間の速度が、恐かった。
まだ足りない、まだ足りないって、底なしに求めていた。
今は恐くはない。
ずっと泣きたかったのだと、気づいたから。
砂の城のように脆くて、不安定で、それを隠す為に、虚勢を張り続けてきたが、
そんな自分を認め許した途端、何かしら暖かい感情が流れ込んできた、あの日。
足りないものを人にではなく、私に求めるようになったんだ。
彼女の目に、好ましい変化として、私が映ったこと、それが、なんだかとても嬉しかった。
変われるって考えると、ドキドキしないか?
ビートたけしのセリフが、不意に、頭に浮かんだ。
9/18
この街の中心には、城跡とそれを取り囲む2重のお堀が、今に残されている。
夏が終わり、日照時間の変化と共に、
お堀沿いに、ちらほらと濃い朱色をした曼珠沙華が、咲き始めた。
曼珠沙華は、梵語から発生した単語で、一般的には彼岸花と呼ばれる。
曼珠沙華・・・なんと妖しい響きだろう。
毒々しいほどの朱色が、周囲の緑の中で際立っていた。
事実、曼珠沙華の地下茎は、水仙に似た鱗形で、毒を有しているという。
みつめるほどに、下品であり、上品だとも感じる。
不気味でもあり、美しくもある。
そのすれすれの危ういバランスが、魅力的だ。
それは、ただ美しいだけのものよりも、確実に私を惹きつける。
人の魅力も、また、私はそんなところに感じる。
9/25
慌しい時間の中、ふとご主人様の声が聞こえることがある。
ミーティングの最中であったり、〆を数時間後に控えた原稿と、格闘中であったりするのだが、
「涼子」とご主人様の低い声が、耳元で囁かれたような気がして、思わず振り返ってしまうのだ。
目を閉じて、もう一度思いだす。
「涼子、涼子、涼子・・」
これは、とっておきのおまじない。
この瞬間、私の脳はα波を送り出し、肩の力がふわっと抜けて、疲れも逃げていく。
こんな、リポビタンDならぬ、ご主人様効果で、分刻みのスケジュールを、こなしていた。
突然、である。
力が入らなくなってしまった。
椅子から立ち上がろうとするのに、足に力が入らない。
当然といえば当然なのだが、極端に少ない睡眠時間の為に、
過労・貧血と診断され、やたらと太い注射と、薬袋に溢れるほどの栄養剤を頂き、自宅に戻された。
本当に疲れていたんだ。
朝を迎え、いつものようにぼやけた頭でPCに向かった私は、
表示されているsystem-dateに唖然とした。
20時間も連続で眠ってしまったらしい。
あまりのことにくらくらする頭を抱えながら、メールボックスを開いた私を、
ご主人様からの温かい言葉に溢れた、一通のメールが待っていた。
なんて、タイミングのいい方なのだろう!
染み入るように流れ込んでくる、その優しさが、本当に嬉しかった。
何度も読み返し、心にファイルする。
ご主人様、本当にいつもお傍にいて下さるのですね。
・・・私は、元気です。
9/27
腕時計は、午後2時を示していた。
この取材が済んでしまえば、今日の予定は何もない。
時間潰しのつもりで、水族館の中を歩き出した。
目的は、イルカ、だ。
調教師の方のお話を聞きながら、ショーの為の練習を見ていた時、
海から顔を出すたびに、こちらに視線を送る一頭のイルカに気がついていた。
海に張り出す形で作られている、簡単な桟橋から身を乗り出し、そのイルカの名前を呼んでみる。
案の定、イルカは海面から顔を出すと、
差出した私の手に顔を押し付け「一緒に遊ぼうよ」と言った。
ごめんね、今日は仕事で来たから、(ウェット)スーツもっていないの、と応え、
それでも諦めずに誘いをかけてくれるイルカの顔を撫でていた。
そんな姿を見ていた調教師の一人が「スーツなら、お貸し出来ますよ」と声を掛けてくださった。
イルカと泳ぐのは、3年振りだ。
大きく息を吸い込み、潜っていく。
すぐ後からついてきた彼は、嬉しそうに私の周りをぐるぐると回った。
まるでダンスをしているようで、私も夢中になって彼についていった。
酸素補給の為に、海面から顔を出さなければならないのが、もどかしかった。
私は、涼子という名前で、人間で・・・そんな意識はまるで無く、
ただ、子供がじゃれ合って遊ぶような、そんなひと時だった。
桟橋で休憩しては、遊び、そして、最後に海から上がった時、
「いつでも僕はここにいるからね」彼がそう言ったような気がして、思わず涙ぐんでしまった。
10/4
その風景が当たり前すぎて、見過ごしてしまうことが多々ある。
ベランダでハーブを育てている。
ローズマリー・バジル・イタリアンパセリ・セージ・・・そう、食用ばかり。
朝食の前に、バジルとイタリアンパセリを摘み、
手でちぎって卵と混ぜれば、ホテルの朝食並みのオムレツを食べることが出来る。
今年はもう、バジルも終わりだな、そんなことを考えながら、ハーブたちに目を移し、気がついた。
太陽が降り注ぐベランダで、ハーブの影が、夏よりも薄いのだ。
強い日差しの下では、くっきりと濃い影を落としていたというのに。
そのことが、奇妙に心に響いた。
そう、影が濃いということは、光もまた強い、ということなんだ。
影の濃さを、それ程引け目に感じることはないんだ。
大事なことは、実は瞬きをする一瞬の間に隠れているのかもしれない。
それらを、感じ取ることのできる人間でいたいと願う。
10/8
化粧品の色選びは、殊のほか難しい。
特に、口紅だ。
様々な有名・無名のメーカーから販売されているが、
そこは日本らしく、季節ごとに新製品が発売され、何シーズンかを過ごすうちに、
お気に入りの色はすでに販売されていなかったりする。
仕方無く似た色をさがすのだが、これが微妙に違っており、実際に唇を彩ると、
全く似合わない、そんなことは度々だ。
気に入った色と出会うのは、至難の業だ。
したがって、そんな口紅とであった時は、
それだけのことが、しばらくの間私を幸せな気分に浸らせてくれる。
風がすっかり秋のものとなり、
これからの季節の洋服に合わせて、少しダークな色味の口紅が欲しくなった。
デパートの様々な化粧品売り場を、30分もうろついた挙句、
決める事が出来ず、ため息をつきかけた時だった。
あるメーカーのボックスの前で、Uターン仕掛けた私に、綺麗な眉をした女性が、
「こちら新製品なんですけど、試してみては如何ですか?」
そう言って、何本かの口紅を示した。
「ええ」あまり気の無い返事をした私だったが、示された口紅を見て驚いてしまった。
「そう、これなんです。この色なんです。つけてもいいですか?」
円い鏡の前で、丁寧に縁取り、色を置いていく。
やっぱり、これだ。
笑顔で代金を支払うと、小さな紙袋をバックにしまった。
もう少し秋が深まったら、この口紅をつけて、お会いしよう。
ふたりで紅葉を眺めるのも素敵だな、そんなことを想いながら、歩き出した。
10/11
目的は、SMだったはずだ。
何も考えられない状況に、「私」を追い込むことで何かが変わるんじゃないかと、思っていた。
「私」という枠を取り外して、その瞬間だけは、自分を解放できるのだと思っていた。
これは、恐ろしい程の依存だ。
見抜かれていたのかもしれない、と思う。
痛めつけることで、解放を願っていた私に、与えられたものは、
そう願う私全てを、受け止めてくれる優しさと、
どんな時でも、傍にいてくださると信じられる、気持ちだった。
プレイでの快感は、更なるご褒美だと思う。
何もかもを委ねてしまうという幻想は、甘美だ。
しかし幻想は、幻想に過ぎない。
ご主人様は、途切れることの無い優しさを、与えて下さる。
その中で、私は安定を取り戻す。
不安に支えられた依存は、病的なしがみつきでしかないが、
信頼に支えられた関係は、希望に満ちている。
「俺は、いつでも、ここに、いるから」
ご主人様の声が聞こえる。
心地よい愛情を感受し、強さを身に付けた私がいる。
ご主人様、私も、いつも、ここに、居ります。
10/16
片岡義男の小説だったと思う。
「右へ行けばカリフォルニア、愛しい人が待っている。左へ行けば・・・」
そんな大層な決意ではない。
ただ、そういう時期だったのだ。
不思議なもので、必要な時には、必要な事柄が起こるものだ。
私にとって、必要だったこと、そこに何を読み取るのか?
感傷的になってしまうのは、二度と戻れないからではなく、
そのことを少しも未練に思っていない私が、ここに居るから、だ。
出会った時と同じような優しさで、別れていこう。
夕陽に、ススキが映えていた。
ご主人様の優しさが、嬉しかった。
10/17
人を愛するということは、その人の全て受け入れることだと思う。
良いところは勿論、自分にとって都合の悪いことも、全て、だ。
あれをしてくれない、これをしてくれない、
それは自分が望むように、相手に存在して欲しいと願っているのであって、
愛しているとは言えないのではないだろうか。
ありのままの自分を受け入れて欲しいのに、ありのままの相手を受け入れることが出来ない、
それは、まるで子供のようだ。
盲目になるのではなく、プラスもマイナスも優しい気持ちで受け止めることが出来た時、
はじめて口にすることの出来る言葉。
ご主人様との関わりの中で、そう思うようになった。
10/18
先日、放送された「ガチンコファイトクラブ」からの連想で、「あしたのジョー」が、見たくなった。
子供の頃、TVに噛り付いて見ていたことを思い出す。
「あしたのジョー」「宝島」「銀河鉄道999」・・・
ジョー、ホセ・メンドォーサ、シルバー、哲郎。
違う背景を持ちながらも、共通していることは、彼等が、何かを求めつづけていた、という点だ。
「あしたのジョー」は、10数本のビデオに納められているので、最終話だけを、取り出した。
倒されても、倒されても、立ち上がり、なおさらボクシングにのめり込むジョー。
パンチドランカーとなったジョーの最終戦の相手は、ホセ、だった。
楽屋で、「お願い、行かないで」と懇願する葉子に、
「リングの上で、世界一の男が俺を待っているんだ」そう言って、ドアを閉めた。
最後に彼はリングの片隅で、つぶやいた。
燃えたよ・・・真っ白に・・・燃え尽きた・・・。
確かに、男だけの世界なのかもしれない。
その後、ジョーがどうなったのか、それは誰にもわからない。
(ビデオ版では、多分、死んでしまった)
でも、現実は、物語ではない。
その後も、生きていかなくてはならないんだ。
ファイトクラブの一期生たちが、今後どのような道を進むのか、分からないけれど、
そういうようにしか生きられない、不器用な彼等に、
感動している私たちがいることを、忘れずにいて欲しいと、思う。
10/21
信じて良いのだろうか?と、不安を感じたことは、一度も、ない。
自分の存在を、否定してしまいたかった時でさえ、ご主人様を信じていた。
そして、これからも、同じだ。
ご主人様、ご主人様を信じております。
ご主人様のお考え、行動、その全てを、涼子は信じております。
物理的な距離は、何の問題もなく、ご主人様が、願ってくださる時、
涼子は、いつも、お傍におります。
10/24
ブルックリンに住む友人から、週に一度、メールが届く。
今回は、先日NYを訪れた際の写真が、添付されていた。
笑顔の私の背景には、小さなケーキ屋さんが、映っている。
私がこんなにも、嬉しそうな表情をしているのは、訳があるのだ。
そのケーキ屋さんは、タルトが美味しいと評判のお店だった。
胡桃のタルトとコーヒーを頂いていた私たちの隣の席から、
「HAPPY BIRTHDAY」の声が聞こえてきた。
4人の白髪の女性たちだった。
それぞれの前には、紅茶が配られ、テーブルの真中に、
多分一人一個では、多すぎるのだろう、3ピースのタルトと小さな蝋燭が置かれていた。
細い声でその歌を歌い終え、蝋燭の火を吹き消すと、店中の客達の間から、拍手が起こった。
小さくそれに答えた後、一人の女性が席を立ち、友人一人一人と、抱擁を交わした。
それは、同じ時間を共有した全ての人に、幸せを感じさせる光景だった。
彼女達は、どんな時間を過ごしてきたのだろう。
美味しい紅茶と一口のケーキ、そして親しい友人たち。
彼女達が、何を大切にしながら長い年月を過ごしてきたか・・・
その結果が、そこに、あった。
「Good luck on your birthday!」
そんなエピソードが、写真の中の私を、微笑ませていたのだ。
温かい時間を重ねて、私たちも、そうあれたなら・・・。
10/30
午後5時のエアポート。
誘導灯・・・人を待つ灯りは、こんなにも温かいんだ。
港を出て行く慌しさと、戻ってきた安堵感が、交差する。
ずっと昔、港で、船乗り達を相手にした、酒場のマスターになりたかった。
口に出せば、笑われてしまいそうな夢だったが、
最近出合ったある女性も、同じような夢を見ていたと知り、驚いたと同時に、とても嬉しかった。
帰りを待つ人がいるからこそ、後も振り向かずに、出てゆけるのだろう。
そんな、誰かを待つ人に、なりたかったのかも知れない。
搭乗の最終アナウンスが始まった。
後ろは、振り向かない。
きっと、ご主人様が、私の帰りを待っていて下さるのだから。
11/3
ご主人様の愛奴の方々とお会いすること・・・
それは、アンヌ・マリーの家の庭でアフタヌーンティーを楽しむ彼女達のように、
極めて非日常であると共に、絶え難い魅力を感じていた。
他の女性への嫉妬に苛まれていた頃には、考えもつかないことだった。
掲示板で会話を交わすようになり、親しくなった今でも、
冷静に考えれば考えるほど、不思議な関係だと思う。
先日、彼女たちとランチをご一緒する機会に恵まれた。
瀟洒な建物の一角にある、小料理屋さんで、美味しいお料理と、楽しいお喋りで、
穏やかに優しい時間が流れた。
初めてお会いするのに、または、お会いするのは2度目なのに、
随分昔から知っているような、そんな錯覚を覚える。
ご主人様にとって大事な方々なのだから、私も大切にお付き合いさせていただこう、
少し背伸びをしながら、そんな風に考えていたことが、遥か昔のことのようだ。
ご主人様は、もしかしたらお笑いになるかもしれないが、
彼女たちは、私にとって、すでに大切な友人となってしまった。
それぞれの日常で、頑張りましょうね。
そして、いつかまた、お会いしましょう。
私たちは、棘が刺さったような少々の心の痛みと、はてしない快楽の共犯者なのだと思った。
11/6
「壊れかけていた私から壊れそうなあなたへ」
これは一時ベストセラーにもなった本だ。
私は、一冊の本を何度も読み返すタイプで、これで、3度目か4度目なのか忘れてしまったが、
読むたびに、また違った発見があるものだ。
様々な精神的な障害から回復したカウンセラーの、その物語と、彼等のクライエントの物語が、
ここには散りばめられている。
そこにあるのは、冷たい学者の目ではなく、辛い経験を乗り越えた故に、
筋金入りの希望を持ったカウンセラーの温かい視線だ。
第三章のサブタイトルは、自虐行為としての性行為、となっている。
こんなことが書かれていた。
「縛られた時、自分の責任が全て放棄されたような気分になったんです。
だから凄く気持ちが良くて、楽になれたんです。究極の依存ですね」
「本当に必要なのは、プレイではなく心なんです。でも私自身がそうだったように、
それに気付いている人は本当に少ない。ただひたすら過激なプレイに走り、
心の傷をどんどん深くしている」(本文より)
今となっては、うなずける言葉だが、私は何も知らずに、SMの世界に足を踏み入れてしまったんだな、
と今更ながら思う。
同時に、shadow様がご主人様であったことに、感謝せずにはいられない。
何故なら、心の繋がりがなければ何も始まらないと、教えてくださったのは、他ならぬご主人様だからだ。
離れていても、心が通じている状態というものを、
綺麗ごとでなく、実感として教えてくださったのも、ご主人様だ。
そうして、私は、ポケットにいつもご主人様を抱えて、歩いている。
11/8
冷え性の所為もあり、例年冬になると2割増しに着膨れする私だが、
その一方で、四季の中でも、冬が一番に好きだ。
子供の頃、雪を見るのが大好きだった。
窓にくっつきそうな程に顔を近づけ、降り続く雪を眺めていると、
空から雪が降ってくるのか、私が空へと上昇しているのか、
区別がつかなくなる、そんな感覚が、好きだった。
ストックのむせるような匂いも、その白さも、冬が近づくに連れ、恋しくなる。
お隣の家の庭先の白木蓮が、つぼみをつけ始めた。
白い毛が、西日を受けて白銀色にひかっている。
今年の冬を、どのように楽しもうか、
仕事の合間のひと時を、そんなことを考えながら過ごした。
ご主人様とむかえる、初めての冬。
そして、木蓮のつぼみが開く頃、
初めてメールをお送りしたあの日から、一年が経つ。
11/12
気象庁発表の天気予報が、見事に外れた、秋晴れの一日だった。
遅めの朝食を終えた後、数冊の単行本と、コーヒー豆を、
アウトドア用のデイバックに放り込み、車を北西へと向けた。
ここから1時間程のドライブで、日常を過ごしている街とはかけ離れた、山の中にたどり着く。
車を山道のちょっとしたパーキングスペースに止めると、おおよその見当で歩き出す。
川沿いに少しだけ歩くと、理想的な場所はすぐに見つかった。
流木に腰をおろすと、デイバックからポケットストーブと5個の角砂糖のような形の固形燃料を取り出す。
こんな日ならば、マグカップ一杯分のお湯は、すぐに沸いてしまうだろう。
途中で、湧き水から汲み取った水をアルミのカップに入れ、ストーブに掛ける。
白い湯気が立ち上がる頃、バンダナに包んだ、コーヒー豆を取り出し、
その辺りに転がっている石で、バンダナの上から、細かく砕くと、
コーヒーを挽いた時に特有の、香ばしい香りが漂う。
別に、挽いたコーヒー豆でも良いのだろうが、こうすると、味と香り共に格別に美味しく感じられる。
この方法を教えてくれたのは、片岡義男だった。
高校生の頃だったと思う。
それからしばらくの間、ツーリングに出かけるときには、
必ず、バンダナとコーヒー豆を持参したものだった。
バンダナをフィルターの要領で、もう一つのアルミカップの上に広げ、
そこに、充分に沸いたお湯を落としていく。
あとは、琥珀色の液体がカップいっぱいになるのを待つだけだ。
自分だけの為に入れたコーヒーを、こうした場所で楽しむ時、
いつも素敵な風が吹くのは何故だろう。
11/15
もうすぐ、お会いできますね。
暇さえあれば、後何日・・と考えてしまう涼子です。
どの服を着て行こうか?
ネイルの色は??
そんな風に、ちょっぴりはしゃいでしまう自分も、悪くはないな、なんて思うのです。
いつものブティックで、いつもとは少し違ったイメージのワンピースを買ったり、
ご主人様宛てのメールを書く手を休めて、一緒に歩いている姿を想像したり、
まるで、「女の子」だった頃のように浮かれています。
ご主人様は、涼子の中の「可愛い(容姿ではありません)」を、たくさん引き出して下さいました。
そうして、涼子は、また少し、自分を好きになっていくのです。
11/17
「そうだ、京都へいこう」JR西日本のCMに惹かれるように、
秋には京都でお会いしましょうと、お約束をさせて頂いた。
金曜日、晩秋の古都は曇り空で、西高東低の気圧配置が、冬の訪れを予感させる、そんな一日だった。
賑やかな京都駅周辺から離れるに従い、いちょう並木も色づきを増し、
この先で私たちを待っている紅葉に、期待が膨らんでいく。
銀杏ご飯をお召し上がりになられたことはございますか?
そんな他愛も無いお話をさせていただきながら、白川通りを北に向かう。
洛北一古い栖龍池がある圓光寺は、京都ならではといった風情のお寺だ。
本堂をフレームに見立てて眺める中庭は、濃厚な緑の絨毯を敷き詰めたかのように、
びっしりと苔で覆われ、その頭上には紅色の紅葉が映え、
まるで、鮮やかな絵巻でも見ているかのようだった。
紅葉を目的に訪れる人は多く、縁側に座り、ゆっくりと眺める贅沢は許してもらえなかったが、
それでも、今年の紅葉をご主人様と共に、充分に楽しむことができた。
立ち寄った和菓子処で頂いた「でっち羊羹」の、素朴な味わいも、また、忘れ難い。
夜の先斗町を、二人であるきましょうね、そんな願いも、現実となった。
しっとりとした雰囲気の、先斗町の路地の向こうから舞妓さんがあらわれ、次の角に姿を消していく。
淡い灯りの中寄り添い歩く幸せを、私はしみじみと味わっていた。
鴨川の流れを臨む「招月庵」で夕食を、と決めたのは、他でもないご主人様の「感」であったが、
現在までのところ、この「感」が外れたことはない。
二人が共に大好きな生牡蠣を堪能し、ワインを楽しみ・・・
そうしていつもの如く、ほろ酔い加減の上機嫌で店を後にした。
もう一つ付け加えるならば・・・そしていつもの如く、食後のラーメンを頂いたのだった。
ご主人様は、酔いと睡眠不足から、あくびをかみ殺していた私をお気遣いになり、
今夜はもう眠ろうと仰って下さったが、それでも、少しだけお口でご奉仕をさせていただき、
そうして、いつのまにか、私は眠り込んでいた。
翌朝、目を覚ましたのは、私の方が先だった。
眠っていらっしゃるご主人様を、みつめているのは、幸せを感じる、ひとつのシーンだ。
お体を洗わせていただき、ご主人様を背中に感じながら、お風呂に入ることも、また、同じだ。
この時まで、いつもと同じ流れをたどっていた。
部屋に戻り調教が開始され、30分を過ぎた頃だと思う。
手首と足首を麻縄で縛られ、バイブを一番感じる場所に挿入されたままの姿で、床に転されていた私の耳に、
モモの辺りから聞こえるバイブの音に混じって、微かに携帯のバイブの音が聞こえる。
昨夜から何度か聴いた音だったが、それら全てをご主人様は聞こえない振りをして下さった。
私への気遣いだろうと、嬉しく思い、私もまた気付かない振りを続けていたが、
この時ばかりは、その音の方へとゆっくり歩いていかれた。
私は床に転がったまま、ご主人様のお声を聞いた。
ヒナか・・・今、涼子といる・・・。
私は、きつく目を閉じた。
その瞬間、ヒナ様もまた、息をお飲みになりきつく目を閉じられたことだろう。
ご主人様の声は、続いている。
涼子がどんな格好をしているか教えようか?
縛られて、床に転がってるぞ。
そこにいるはずの無いヒナ様の視線を感じて、不自由な姿勢のまま、
ご主人様に背を向けようとするが、すぐに音をたてて手が振り下ろされる。
動いていいと、誰が言った?
いや、こっちのことだ、切らなくていい・・・。
電話越しに、ヒナ様が何とか切ろうとしてくださっている様子が伺えたが、
ご主人様は、それを許しては下さらなかった。
バイブは、振動を続けている。
私は、湧き上がる喘ぎ声をなんとか我慢しようと唇を噛んでいた。
ヒナ様の前で、そんな声をあげる訳にはいかない。
まして、ヒナ様に見詰められているような気がして、感じてしまうなんて、
絶対に悟られてはいけない。
必死に絶えていたにも関わらず、ご主人様が仰った言葉・・・
「おい、ヒナもここに来たいと言ってるぞ」
このセリフが耳に入った途端、微かに残っていた常識は、見事に砕け散った。
「お前もイっていいんだぞ」ご主人様がヒナ様に仰っる声が聞こえる。
何度もイきかけ、その度に押さえ込んでいた反動が、
波のように押し寄せ、私もまた、繰り返し絶頂を迎えていた。
全身の力が抜けたまま、荒い呼吸を続ける私の耳元に、
「おい、ヒナと話せ」と携帯が差し出される。
ヒナ様は、何度も何度も「ごめんなさい。邪魔をするつもりではなかったのです。本当にごめんなさい」
を繰り返され、私もまた、ごめんなさい、と言い続け・・・
先にその言葉を口にしたのは、私だったと思う。
「ヒナ様が、ここに居て下さったのなら良かったのに・・・いつか二人でご主人様にご奉仕しましょうね」
常識的でないことは百も承知だが、本当にそう感じたのだ。
いつか、二人で。
しかし、内心は、様々な思いが巡っていた。
ご主人様と私が一緒にいることで、ヒナ様は悲しまれるのではないだろうか?
一緒にいるのは私なのに、心はヒナ様と繋がっていらっしゃるような、そんな気もした。
電話をお切りになられたヒナ様は、一人きりで、
私はご主人様と一緒にいることが出来て・・・
その後、ご主人様がセックスを下さると仰るのにも関わらず、
嫌ですと申し上げる程、その気持ちは強いものだった。
調教の痛みは、そんな切なさを忘れる為に、丁度良かったのかもしれない。
手首を頭の上で固定され、鞭代わりのコードが振り下ろされた時、痛みと共に、そんなことを考えていた。
コードが振り下ろされる度に、お尻の辺りや背中は、焼け付くような痛みを感じ、私はうめき声を上げてしまう。
体が自然と壁側に逃げ、力が入ってしまうので、次の一撃は、より痛みを感じることになる。
むなしく身をもがくが、ご主人様が打ち損じる筈も無く、
強い痛みのあとに、それが体中にじわっと広がり、その感じは決して嫌いなものではなかったのだが、
すぐに次の痛みが訪れる。
涙が、悲鳴をあげるたびに、口の中に流れ込んでいた。
今回はこの位にしておこう、と打つ手が止まった時、
お尻のあたりは、みみずばれが重なり、ジンジンと熱を持っていた。
帰りの新幹線のシートで、今日ばかりは何も書くことが出来ず、この2日間を思い出していた。
なぜ、泣き叫ぶほど痛いのに、その痛みを求めているのだろう?
それはMの証明なのかも知れないが、私自身がそうして欲しいと願ったにも関わらず、
何だか戻れない所まできてしまったような、
そんな哀しさを感じていた。
Oのように扱ってください、そう申し上げたのは、私だった。
今回はコードを代用したが、本当の鞭はもっと痛いぞ、と仰っておられた。
それでも、私はそれを望むのだろうし、また、よりご主人様をお慕いするようになるのだろう。
私はMなのだろうか?そんな疑問から、私はこれを望んでいたのだという事を認めざるを得ない所に、
来てしまったようだった。
多分、その寂しさは、戻れないことへのほんの少しの愛着だったのだと思う。
その夜、ヒナ様から、お電話を頂いた。
申し訳ございませんでした、をもう一度言いたかったのだと、仰った。
「大丈夫です。ですからヒナ様も気になさらないでくださいね」
そう申し上げると、
「それは、私の電話の存在が、通常に影響与えなかったということですか?」
ヒナ様は時々意地悪だと思う。
分かっていらして、言葉を引き出そうとなさるのだから。
「あの空間にヒナ様がいらしてくださった事が、積極的に、嬉しかった、です」
多分、お互いに、同じように感じながら、その感情に自信が持てなかったのだと思う。
そう遠くない将来に、それはきっと現実になるだろう。
多分、きっと・・・
11/19
shadow様以外の方を、ご主人様と呼ぶなんて、一度も考えたことは無かった。
涼子の友人は、Sの男性と同居する、美しいM女性だ。
彼女から、久しぶりにランチでもご一緒しましょう、と誘われた。
彼女は、主婦のスペシャリストで、店を出してもおかしくない腕前を、
毎日惜しげも無く、彼の為に振るっていた。
今日は、何を食べさせて頂けるのかしら、そんなことばかりを考えながら、
彼女の好きなウバ茶を手土産に、2人の家を訪れた。
食卓には、素敵に盛り付けられた、牡蠣づくしのお料理と、一人の見知らぬ男性が座っていた。
「Hです。はじめまして」
見知らぬ男性は、落ち着いた響きの声でそう名乗った。
初対面の挨拶を済ませたものの、この席に何故彼がいるのか解らないままに食事は始まった。
Hさんは、フリーで仕事をしている方らしく、仕事で訪れた様々な国の話題で、私たちを楽しませてくださった。
食後に香りの高い紅茶と、小さなケーキを頂いている時だった。
彼女が突然言い出したのだ。
「涼子さん、Hさんはsmの世界に身を置いている方なの。あなたのご主人様に、ぴったりだと思うのよ。
同じような職業だから、話も合うでしょう」
・・・そういう訳だったのですね!
その言葉を待っていたかのように、今度はHさんが
「彼女から私にぴったりの女性がいると聞いて、無理を言ってセッティングしてもらったのです。
考えてみてくださいませんか?」
考えるも何も、私にはすでにご主人様がおりますし、その方をとても愛していますから。
「その方には、他にも女性がいらっしゃると聞いています。それで、つらくないのですか?
私だったら、そんな事はしない。それにあなたが望むなら、毎週でもこの街を訪れますよ」
ありがとうございます。
でも私、その女性たちも大好きなんですよ。
ごめんなさい。
ご期待に答えることはできません。
今日は、もう、帰りますね。そう言ってコートを手にした私に、彼は名詞を渡すことを忘れなかった。
「いつでも連絡してください。いいですか。いつでも、です」
涼子の気持ちを知っていながら、こんなことを企んだ彼女達を恨めしく思いながら、帰り道を急いだ。
ご主人様以外の方を・・なんて、考えたくもないことだ。
でも、ご主人様が、それをお望みになられたら、どうしよう!
ほとんど妄想に近いものだったが、考えれば考えるほど、マイナス思考へとはまり込んでいってしまう。
些細な事で動揺している自分自身が情けなかった。
ずっと、ご主人様のお傍にいたい、強くそう願っている。
それだけは、本当なのだけど。
11/23
私は「さよなら」が苦手だ。
1ヶ月もしないうちに再び会うであろう友人と別れる時でさえ、
「それでは、また・・・」と言葉を濁してしまう。
ご主人様にお会いする事は、大きな喜びであるけれど、
新幹線の時間が近づき、駅への道を歩く頃になると、
話し忘れたことがたくさんあるようで、でも、何も思い出せなくて、言葉に詰まってしまう。
2人で見上げたクリスマス・ツリーがやけに綺麗に映るのも、
場違いな程の音量で響き渡るバンドの演奏も、パスタが美味しいことさえも、切なく感じた。
改札口まで送って下さったご主人様に、
「さよなら」を申し上げる時間が訪れると、それはもう、無様なものだ。
涙のひとつもこぼせば可愛いものを、生憎と人前で涙を流すことを自分自身に許してはいないので、
別れ際の私の顔は、いつも醜く歪んでいるだろう。
さらっと、何の気負いも無く「さようなら、またお会いしましょう」と笑顔で背を向けられたならいいのに。
ブルガリの香りだけを残して。
ご主人様とお別れした直後、時間が許す限り、一人でコーヒーを飲むことにしている。
運ばれてきたカップの中の褐色の液体を、敵でもあるかのように、睨みつけ続ける。
・・・もう、大丈夫、涙は浮かばない・・・
そうして、熱いコーヒーに口をつけ、ため息をひとつ。
この短い時間で、私は日常に戻る。
11/26
地方都市のビジネスホテルでの一夜。
これはもう、最高に贅沢な時間だ。
食事を済ませ、ホテルの部屋に入れば、明日の朝まで、私だけの時間が待っている。
熱いシャワーの後、部屋着に着替え、ルームサービスのコーヒーと持参の小説と。
エアーコンディショナーのかすかな音に混じって、時計の針が時間を刻む。
見開き1ページ、そして、コーヒーを一口。
文庫本を一冊読み終える頃、ポットの中がちょうど空になる。
さあて、どうしましょう?
届いているはずのメールの返事を書こうかと、一瞬ノートパソコンに手が伸びたが、
思い直して、バスルームへと向かう。
バスタブにお湯を張り、グリーンのバスソルトを振り入れると、途端にヒノキの香りに包まれた。
部屋着を脱ぎ捨て、ゆっくりとお湯に身を沈めていく。
森の香りは、私を安定させる効果があるようだ。
どの花の香りよりも、樹の香りに何故か惹かれる。
乾いたタオルで体を拭くと、そのままベッドまで、9歩、歩く。
スタンドの横に、麻縄が置かれている。
ご主人様に頂いた縄を、涼子が短く切ったものだ。
それが2本。
全裸のまま、シーツとシーツ間に入り込み、足首を少しきつく縛る。
そして、もう一本で手首を・・・苦戦しながら、何とか縛ることが出来た。
ベッドに横たわる。
麻縄が、次第に肌になじんでゆく。
ご主人様に縛って頂いているような、そんな安心感の中で、眠りについた。
11/29
ここ数日間の憂鬱の原因はHさんに他ならない。
お会いした翌日から、毎日メールが届く。
中を読まずに放って置いてあったのだが、
未開封**通の文字が目に入る度に、居たたまれなくなり、結局すべてに目を通してしまった。
同業者の、同じ視点からの指摘は、結構堪えるものだ。
お会いしたときに何度か口にした、お断りの言葉をメールに書き込んで、そして止めた。
多分、返事が届かなかった時と同じように、何も耳に入らない様子でまた、彼はメールを書くだろう。
腹が立つのは、彼の言葉に動揺している自分自身に対してだ。
ご主人様のサイトを見ているかもしれないと思うと、日記を送信させて頂くことさえ、躊躇してしまう。
出来ることなら、放っておいてください。
自分自身を納得させている論理が、たとえ砂の城であったとしても、
私が、それを望んでいる以上、何度でも、砂の城を築きあげるでしょう。
不安は、私の中の何かが、形となって現れているに過ぎず、他から与えられるものではありません。
そして、私の幸せは、私自身が決定します。
12/1
荷物は、少なければ少ない方が、いい。
両手に抱えられるだけの最小限の荷物で、飄々と歩き続けたかった。
新しいものが増えれば、古い何かを捨てて・・・
身軽さが、私の特徴だった。
守るべきものが増えると、途端に不安になる。
そして、その重さに耐えかねて、また、手放してしまう。
私が去った後には、何も残らない、それで良いと思っていた。
「死」について語る時、何故そんなにおびえるのか、解らなかった。
生まれた時と同じように死んでいく、ただ、それだけだと考えていた。
誰かの記憶に留まりたい、そんなことを願うなんて。
願う?
いいえ、それどころではない。
切望していた。
不安、恐怖、絶望。
ご主人様は、仰いました。
ギリギリのところで、人としての真価が問われるのだと。
こんなにも安い魂なのです、涼子は。
誰でもいいから、抱きしめて欲しかった。
恐怖から逃れられるのなら、誰でも構わなかった。
でも、現実的に抱きしめられた途端に、この腕の中ではないと感じていた。
馬鹿です。
短絡的過ぎます。
はじめから、怖いと、不安だと、寂しいと言えば良かった。
中途半端な強がりが、逃げ道を塞いでいく。
ご主人様、怒鳴って下さってありがとうございました。
気が付けば、涼子の荷物は抱え切れないほどに増えていて、
今はそれを「重い」ではなく、「嬉しい」と感じています。
503号室にて。
涼子。
12/5
罰を下さい、そう申し上げたのは、涼子の方だった。
してしまったことを後悔し、落ち込み始めたら、きっと、何処までも落ち込んでいくだろうし、
回復まで、非常に時間が掛かると考えたからだった。
ご主人様は、望みどおり罰をお与えになり、そうすることで涼子を救って下さった。
もっと恐ろしいことを想像してしまった為に、内容を聞き、少しほっとしたのは事実だ。
アクセサリーボックスを開き、ピアスを身に付けることが多いため、
たった一組しかないイヤリングを取り出した。
そして、あの、柔らかい部分に、ひとつをはめた。
かすかな痛み・・・思ったよりも痛くないことに、安心していた。
誕生石でもある、トルコ石が、足の付け根の辺りで、揺れている。
鏡の前には、チョーカーをつけた全裸の女が、あの部分に戒めを受けて、立っていた。
思ったほど痛くない、その感覚を否定したのは、すぐその後だった。
動くたびに食い込んでくるようで、熱を持ち、全神経がそこに集中していた。
その感覚が、痛みなのか快感なのか、すでに判断はつかない。
歩くたびに、座るたびに、その感覚は、鋭いものとなり、涙が滲みそうになる。
こうして澄ました声で、クライエントと向かい合っている、涼子のスカートの下で、
あの部分は、痛みと快感との間で疼いている。
見抜かれてはいけない、そんな思いが、涼子の振る舞いを、スローなものにするのだ。
あと、1日と7時間、耐え抜かなくてはいけない。
ご主人様に、この姿をお見せしたいと思う。
そして、鞭で涼子を打って頂きたい、切実に、そう思う。
12/6
泣き言は絶対に言わない、そう誓った筈なのに。
連続する痛みと、もうすぐ絶頂を迎えそうで、でも一向にやってこない、
そのふたつの感覚の間で、涼子はどうにかなってしまいそうだった。
寿安の絵が、無性に見たかった。
そして、白い画集を開き・・・そう、竹薮の中で、縛り付けれらているあの女性を見た瞬間、
しびれていたあの部分が、蝋でも落とされたかのように熱くなり、
涙ぐみそうな痛みは、もうすでに快感に変わっていて、そうして・・・
そうして涼子は、それ程広くも無い居間のソファーにもたれたまま、
きつく目を閉じて、訪れた快楽に、身を任せた。
足の間で揺れていたトルコ石は、溢れ出してきた生暖かいものに絡め取られ、ぴったりと肌に吸い付いていた。
しかし、やっと迎えることの出来たクライマックスの余韻に浸っている暇は無かった。
熱く火照ったあの部分の中で、冷たい感触の銀色の戒めが、新しい痛みを送り出している。
絶頂の後、それまで以上に敏感になっているにもかかわらず、容赦がなかった。
先ほど、気持ちが良いと感じた分だけ、痛みが勝っていた。
何時まで続くのだろう?、終りの時が、果てしなく遠く感じられる。
そうして、この「罰」が終わったら、涼子の罪の意識は消えているのだろうか?
12/8
「うつし世は夢、夜の夢こそまこと」
中国に伝わる離魂のお話だ。
ある女性が毎晩蝶になって舞う夢を見る。
目が覚めると、現実の生活が始まるが、夜が訪れると、彼女は夢の中で再び蝶になる。
それを繰り返し・・・いつしか夢と現実の境が無くなり、彼女はずっと蝶のまま。
でも、どちらが現実か?なんて、誰が解るというのだろう?
私にとっては、日常の生活も、蝶になって舞う自分も、どちらも現実に思えますよ、そういうお話。
非日常の世界を生きている「涼子」は、夜の夢のようなものだ。
しかし、近頃では日常にまで「涼子」が、顔を覗かせるようになっている。
涼子の視線で、物事を捉えている、私。
涼子と私の間で生じる葛藤。
日常と非日常の境が曖昧になり、戸惑を感じている。
どちらも私、どちらも・・・多分・・・幸せ。
今こうしてキーボードを叩いているのは、私、それとも涼子?
日常が非日常で、非日常が日常になったとろこで、何も変わらないのではないだろうか?
どちらも、私であるならば。
何を望むのか・・・それが全てのキーワードかもしれない。
12/10
パーティシーズンが、今年もやってきた。
クローゼットの前で頭を抱え込むシーズンでもある。
散々迷った挙句、着物にしてしまうことが多いのだが、
今年は、ちょっと雰囲気を変えようと、黒いロングドレスをオーダーした。
鎖骨がちょうど綺麗に映えるほどのV字の襟ぐりに、ノースリーブ、
そして、背中は、肩甲骨の下辺りまで大きくカットした、ベルベットのタイトなドレスだ。
深いスリットが入っている。
ほんの遊び心でつけた、ガーターベルトの下のあの部分は、
先日、外すことを許可されたイヤリングが取り付けられていた。
歩くたび、かすかな痛みが訪れるが、
エアコンで暖められた生ぬるい空気に、慰められる。
その繰り返し。
アメリカの大統領選挙の行方などを話しながら、私は、シャトー・マルゴーの香りに欲情していた。
シャトー・マルゴーの香りを嗅ぐと、セックスが欲しくなる、小説の中の男性が、そう言った。
確かに、そうかもしれない。
香りと共に、忘れていた何かを思い出しそうな、そんな感傷に襲われる。
その瞬間、私はひとりで立ち尽くし、足りない何かを埋めるためには、セックスが必要だと思われた。
エスコート役の男性が、不思議そうな顔で近づいてくる。
「どうしたの、顔が真っ青だよ」
いいえ・・・少し立ちくらみがしたの。
大丈夫よ。
ごめんなさい。
少し、座らせていただくわ。
私は壁に向かって歩き出した。
足の付け根の辺りで、トルコ石が揺れている。
ゆっくりと膨らんでゆく欲望に、これ以上立ち続けることは出来なかった。
椅子に腰掛け、ストールを体の前で握り締める。
シャトー・マルゴーを一口。
やがてやってくる快楽を待ち受けようと、私はきつく目を閉じた。
12/13
今日と同じように、明日も会えるだろう・・・何故そんな傲慢なことを考えていたのだろう。
その時になって、ようやく、私は気づく。
どうしてもっと、想いを言葉にしなかったのだろう?
どうしてもっと、優しくできなかったのだろう?
後悔は、虚しく宙を舞う。
出会った時に、すでに別れを内包しているのだから、仕方がない、
そう言ってしまえば、それでお仕舞いだけど・・・。
曖昧な終わり方を選んだ彼女は、全てを背負い、背を向けたけれど、それが彼女の愛だと、私は知っている。
幾つかの季節を共に過ごし、同じ夢を見ながら、走った。
そこにいたのは、紛れもなく、私たち、だ。
誰にも、何も、言わせない。
離れなければならない、彼女の必然性も、彼女の苦しみも、
この場所に立ったまま、私は、感じたい。
寄り添いながら並行していた線は、その行き先を大きく分けたけれど、
時の流れの中で、いつかまた、交差する日が来ると、そう信じたい。
積み重ねた時間を、無にしないための、あなたのメッセージを、受け取りました。
私は、ここにいます。
あの日の写真をポケットに入れて。
あなたの幸せを、心から願っています。
あなたと出会えて、良かった。
そして、いつか、また・・・。
12/23
12月23日、クリスマスイブ前日。
新大阪の改札を抜けた途端、山下達郎のクリスマスイブが流れてきた。
映像と、「きみはきっとひとりじゃない」なんてコピー付きで。
やりすぎだよ!JR西日本!!
無理矢理抑えていた感情が、こぼれ落ちてしまうじゃない。
慌てて深呼吸。
ゆっくりと目を開けると、同じように目の端を赤くした女性と目が合ってしまい、互いに、苦笑い。
エスカレーターに運ばれながら、もう一度深く呼吸する。
やっぱり、苦手だ。
息を弾ませ、胸を躍らせながら、ホームを掛けるあの女の子だって、
シンデレラエクスプレスの時間が訪れたなら、
こぼれてしまいそうな涙を隠すために、最大限に目を見開くんだから・・・
なんて、かなり意地悪く考えてみる。
これが最後という訳でもないのに、離れていくのは身体だけなのに、
過ごした時間は、優しく温かいものであったのに。
ご主人様と私の間には、ふかふかのダウンがあって、抱きしめ合うには、少し不恰好だったけれど、
私の頬は、ご主人様の首筋の体温を感じていたし、私は確かに腕の中に抱き留められていた。
右の耳元で、大好きな、低い声が、ささやく。
人ごみの中だということも、新幹線の到着を知らせるアナウンスも、
私たちの存在以外は、全てどうでも良いことだった。
安定と切なさの境界で、私は胸がいっぱいだった。
そして、大きな手が私の髪をくしゃくしゃっとかき混ぜて・・・
シルエットは、ふたつに別れた。
ああ、なんてありきたりなのだろう。
でも、ありきたりの中にこそ、真実はあるのかもしれない。
宝物のような今日をエッセンスに、幾つものジェリービーンズを作るんだ。
いつでも取り出して、その甘さと、綺麗な色を、何度も何度も、味わうために。
私は、落ち着いた仕草で、毎日を過ごす。
でも、ご主人様以外は、誰も知らない。
甘くて切ないジェリービーンズを、いつも涼子がポケットに仕舞いこんでいることを。
1/4
朝、まだ太陽が昇る前の早い時間に、自宅を出発、**にある山荘を訪れた。
部屋の中は、去年買い換えたばかりのファンヒーターが威力を発揮し、
シャツ一枚で快適に過ごしているが、窓の外は、まだ、雪が降り続いていた。
隣の山荘の明かりが、木々の間からこぼれるほかは、
寒月と星座の瞬きだけが、真っ白な雪を照らしている。
静かだ。
冬の王者と呼ばれるオリオン座が、その美しさを誇示している。
ペテルギウスの赤い光と、リゲルの白い光・・・なんと美しく、巨大な星座なのだろう。
斜めに並ぶ三ツ星の下では、オリオン大星雲が、淡い広がりを見せている。
冬の冷たく澄んだ空気の中、星の光はどの季節よりも強く感じられ、
そびえたつ木々が、黒々としたシルエットとして浮かび上がっている。
オリオン座のペテルギウスと、小犬座のプロキオン、大犬座のシリウスが描く、冬の大三角形。
シリウスは、ひときわ明るく、青白く輝くことから、焼き焦がすものという別名を頂いている。
恐ろしいほどの、星の群れ。
白い雪が、落ちてくる。
私は、こんなにも小さい存在だと、そして、こんなにも自然なのだと、実感する、この時・・・。
カーテンを閉めよう。
そうしなければ、溶けてゆく快感に溺れてしまいそうだ。
ゆっくりと、流れていく、時間を、感じている。
こんな日は、何が大切なのかが、はっきりと解る。
1/7
放った小石が、水面に波紋を広げるように、
誰かの言葉に、誰かが傷つき、それを隠すために、微笑んでいる。
それは、弱さであり、強さであり、優しさでもある。
ひざを抱え、ひとりうずくまっている彼女を、誰も知らない。
夜を照らす月は、今日は見えず、行き先を見失い、彼女は途方に暮れる。
ひとつひとつ、見い出しては見失い、そして、拾い上げて。
何のための私であったのだろう?何のためのあの人であったのだろう?
そんなことを、問いかけながら。
解っていたのは、全てを受け止めるために必要な強さ。
解らなかったのは、その重さ。
傍観者である痛み、加害者である痛み、その両方を抱えて。
それでも、彼女は、ゆっくりと歩き出し、もう一度微笑むだろう。
見失った月を、もう一度探し出すために。
1/10
冴え冴えと、妖しいほどに美しく、狂気の色をして、月が満ちていく。
それは、私たち。
全てを捧げ、
全てを許容し、
痛みと快楽と、主従と信頼が、歪みから、解き放つ。
夜気に溶けていく私と、それを照らす君主と、絡み合い、溶け合い、高め合い続け、
その先にあるものを、見届けるまで。
低いささやきを耳に、月齢を数えながら、次の逢瀬を待ち望む。
1/11
全国各地を取材で周ることの特権として、様々な人との出会いがある。
四国地方に住むOさんもまた、そうして出会ったひとりだ。
ある取材の後、食事をご一緒させていただいたご縁で、
冬になると、地元の特産品である「ゆず」をどっさりと送って下さる。
段ボール箱をあけると、ゆずの香りが広がり、
それは懐かしい田舎の香りのようで、私を幸せにしてくれる。
しばらくは、ゆず味噌、ゆずドレッシング、ゆずジャム・・・と楽しみは尽きない。
お醤油に、フレッシュなゆずを数的絞ると、風味は倍増し、
それを湯豆腐にかけて頂く、おいしさといったら・・・!
もちろん、夜はゆずの皮をお風呂に浮かべ、ちょっとした温泉気分を味わう。
だから、冬の間の我が家は、とてもいい匂いに包まれている。
玄関を開けると、ほんわりとゆずの香りが漂っているのだ。
寒い冬を、ゆずの香りと共に過ごし、
そして、桜が咲く頃、ゆずの香りも何時しか、消えていることに気付く。
私の冬は、すなわち「ゆず」なのである。
1/14
新幹線が駅に近づき、速度を落とし始めた頃、携帯のバイブが着信を知らせた。
あと5分もすれば、改札を抜けるから、かけ直せばいいと、着信を無視し、荷物を戸棚から降ろした。
世間様がお休みの日の、仕事は、時々、憂鬱になる。
日曜日に仕事をしている人なんて、いくらでもいるというのに、なんとなく損をしたような、気分になる。
両手に一杯の荷物を抱え、プラットホームに立っていると、
周囲の殆どが、家族連れであったり、恋人同士であったり・・・
もちろん、そうでない人たちも沢山いるのだろうけれど、
冬型の気圧配置も手伝って、スーツ姿の自分を、妙に寒々しく感じたりする。
しゅうっという音と共に、ドアが開く。
人の流れにそって、けれども早足で改札を抜ける。
歩きながら、携帯を取り出すと・・・
ご主人様からだったんだ!!
5つ目のコールの後、ご主人様の声が聞こえた。
「ああ、涼子か・・・」
会話が進むにつれ、涼子の顔には笑顔が浮かびはじめ、
見慣れた冬の街さえ、いつもよりも素敵に感じられた。
涼子の憂鬱なんて、こんなものだと、可笑しくなる。
数分の電話を終え、元気な足取りでタクシー乗り場に向かった。
もう、寒さは、感じなかった。
1/17
阪神大震災から、今日で6年を迎える。
あの日の、神戸の街並を、私は、決して忘れないだろう。
映像でしか見たことのなかった、戦後直後のような惨状。
私たちが到着した時には、すでに、15時間以上が経過していた。
何時になったら、レスキュー隊が来るのですか!
**方面は、どんな様子でした!?
妹の手を握り締めて、横たわっている父親の傍に立ち尽くしていた少年。
崩れ落ちた家を前に、放心した様子で立ち尽していたおじいさんの顔。
何も出来ない自分が、情けなかった。
この仕事についたことを、呪っていた。
人は、あまりに酷い現状に直面すると、言葉を失ってしまうものだと知った。
それでも、瓦礫の下に埋まってしまった人を、住民が助け合って救出しているのを見かけると、
カメラを放り出して、駆け出した。
そうして、ひとり、ふたり・・・他人が、呼吸をしているという事実が、
こんなにも嬉しかったことはなかった。
あの日から、6年。
人々の様々な悲しみを抱えたまま、それでも神戸の街は復興した。
その陰にあった神戸の皆様の努力に、頭が下がると共に、
人間が生きること、生き続けること、を考えさせられた。
お亡くなりになった皆様の魂が、安らかでありますように。
そして、生き続ける皆様に、たくさんの幸せが訪れますように。
1/21
ご主人様。
私を支配する人。
非日常において、私を支配する人。
ご主人様が求めていらっしゃる関係性は、
「ご主人様と奴隷」というものとは、少しニュアンスが違うのかもしれない。
そう、関係性なのだ。
私とご主人様の間に生じる事柄。それだけが私のリアリティだ。
私は、ご主人様に限らず、他人とコミュニケイションすることで、存在する。
コミュニケイトがなければ、私という定義に意味もない。
・・・なんだか今日は思考がまとまらない。
漠然とではあるけれど、信念の影を見つけたと思う。
探している途中にいるのだ。
見つかるかどうかという点に、価値があるのではなく、
何かを探している途中だということが大事なのかもしれない。
ご主人様がアナウンスされる様々な事柄は、極めてシンプルだ。
1/24
お寺を訪ね、**を訪れた私を迎えてくれたのは、早咲きの白梅だった。
そこはかとなく梅の香の漂う、雪の残る小道を、ひとり歩く。
光の当たり具合で、花びらが透けて見えると、
凛とした表情から、優しい雰囲気が滲み出し、可憐だ。
梅は中国四川省付近が原産地で、日本に渡来したのは8世紀頃と伝えられる。
宮廷では、そのふくいくたる香りと、清楚な姿に魅せられ、競って庭に植えたという。
次第に人気は、白梅からあでやかな紅梅へと人々の興味は移ったといわれるが、
私は白梅の持つ、品の良さが好きだ。
酒に梅の花を浮かべ、香りを移して飲むのが、当時の風流な遊びであったらしい。
・・・と考えているうちに、やはり思い出したのは寿安の絵であった。
ご主人様がこの光景をご覧になられたら、きっとお喜びになるだろうな、
そんなことを考えながら、ゆっくりと歩いた。
春告草の異名を持つこの梅の花言葉は、忠実・独立、である。
1/28
住宅街を抜け、松林の間を通り抜けると、海岸にでる。
太平洋に対面する防波堤に座ると、砂浜を犬と歩くおじいさんがひとり、
遠くに大きな船と、小さな漁船が数隻、あとはただ、穏やかな海が広がっていた。
私の座っているこの場所から眺める光景は、砂浜とそれに続く海と、空と、
つまりファインダー越しに切り取った、風景写真のようだ。
どの季節に来てもいい。
今は冬だ。
各地に大雪をもたらした、九州の南海上から接近した低気圧は退き、冬型の気圧愛知が戻ってきた。
冬のきれいに晴れた日だ。
おじいさんの他は、誰もいない。
広々として気持ちがいい。
波の音だけが聴こえる。
海と面する時、この大きさには到底叶わないなあという思いが、肩の力を抜いてくれる。
冬の一日のディティールを切り取って、目を閉じた。
旅に出ていた船が、港に戻ると知ったのは、その日の夜だった。
今夜は、私たちだけの為に、店を開けよう。
2/5
言葉は、自分の中にあるのだと思っていた。
耳を傾ければ、それでよかった。
湧き水のように、果てることなく、流れ出すのだと感じていた。
言葉を探さなくてはならない状態になってはじめて、傲慢だったと気付く。
何も見つからない。
ホームポジションに指をセットし、そこで途方にくれてしまう。
混乱しているのか、空っぽなのか、それさえ解らない。
何も書くことができない、書く言葉がみつからない。
それが、怖い。
23階、ホテルの窓から見下ろすこの街は、静かな眠りの中だ。
昼間になれば、道路を埋め尽くす、群れのような車も、今は一台も無く、
巨大なビルの足元で、街灯が忘れ去れたように、佇んでいる。
もうすぐ、ビルの向こう側から、朝がやってくる。
2/12
思い立ったら即行動・・・猪的な性格ではあると思う。
しかし、よくよく考えてみれば、このところちょっとばかり疲れていたから、
少し羽を伸ばしたいなあ、と思ってはいたのだ。
目覚めたらとても綺麗に晴れた日で、歯を磨きながら、どこか旅行に行きたいな、なんて考えていて・・・
だから、ふかふかのタオルで顔の水滴を拭う頃には、1泊2日の旅行プランが出来上がっていた。
そして、その判断は正解だった。
穏やかな海を左手に、湯けむりのあがる街並みに差し掛かる頃には、気持ちは解放されていた。
温泉が嫌いという人は、ほとんどいないと思う。
そして、朝食の鯵、真空パックでない出来たてのお豆腐、
この3つがある限り、私は日本以外に定住することはできないだろう。
そのホテルは、海を臨む高台に位置し、幾種かの温泉と、温泉プールを有していた。
温泉につかり、海の幸を堪能し、ほんのり酔い心地で少しだけ眠り、また温泉。
そして、深夜12時をまわった頃、もう一度、露天風呂に入った。
私、ひとり、だった。
濃紺の夜空には、月だけが滲んでいて、波の音が響いている。
湯気と一緒に、体中から力が抜けていくようだ。
何を考えていたのか・・・知らず知らずのうちに、左手がその部分を押し広げ、
右の指先が最も敏感な部分を愛撫していた。
手頃な岩にもたれかかり、夜空を見上げる、指はそのまま。
ほんの数分で、足の先のほうから体中へと、震えるような快感が走り出す。
ご主人様・・・いかせて頂きます・・・
絶頂は、すぐにやってきた。
その瞬間、ご主人様のお顔が、夜空を背景に浮かびあがったような気がした。
夜の静寂を破り立ち上がったのは、やはり数分後だった。
2月の外気は凍えるほどで、素肌を冷たい風が撫でたが、それは表面の熱を奪うに留まり、
芯から温まった身体には、心地が良かった。
そのまま10数歩を歩き、海に向かって手を差し伸べた。
身体から湯気が立ち昇っていた。
素裸のまま、潮の香りを吸い込み、目を閉じる。
この姿を、そのまま切り取って、ご主人様にお届けしたかった。
快楽の名残と共に。
・・・届きましたか?
ご主人様?
2/25
親愛なる御主人様。
駆け足で時は過ぎてゆき・・・春に始まった私たちの関係は、それぞれの季節を過ごし、
再び、桜の季節を迎えようとしています。
メールに始まったこの物語の、しかし本当の始まりは、あの喫茶店だったと思います。
その出来事を、苦笑と共に思い出しながら、あの時、思わず口走った言葉は、今でも涼子のプライドです。
・・・様々なことがありました。
ひとつ、ひとつが、大切な記憶です。
それらがぎっしりと詰った、この日記を、書く機会を与えてくださった御主人様に、心からの感謝を送ります。
そして、ようやくプロローグを終えたばかりのこの物語は、この先も続いていくでしょう。
遠い街に暮らす友人と共に、御主人様のお傍に、ずっと仕えさせて頂きたいと、願っております。
御主人様の意のままに、そう申し上げたことを覚えていらっしゃいますか?
今一度、同じように申し上げます。
御主人様、御主人様の意のままに、涼子は在ります。
ずっと傍に仕えるようにとのご命令を、この瞬間の真実として、涼子に与えてください。
そして、これからもよろしくお願い致します。
涼子
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