30日
先週末の三連休を利用して台湾へ行ってきた。
「また台湾かい」という声が聞こえてきそうだが、好きなのだから仕方がない。
過去、台湾については散々書いてきたので今更目新しい発見も少ないが、毎回毎回台湾で圧倒されることについて再度書きたい。
それは台湾の人々の語学力だ。
いったい台湾という国はどういう英語教育をしているのか知らないが、中学生でも英語を平然と話す。それも習いました的な英語ではなく、俺には何度聞いてもネイティブにしか聞こえない。
いわんや高校生や大学生ならバイリンガルは当たり前として、台北のコンビニ店員は例えカタコト発音であれ日本語もちゃんと話してくるし、おそらくは韓国語も話せるのだろう。
毎度毎度、彼らの語学力、特に英語力には圧倒させられるというよりもこっちが情けなくなってくるほどだ。
もう少し英語を何とかせなあかん...と、台湾旅行のたびに思うが、そのうちうやむやになってくる。
毎度その繰り返しである。
とはいえ今回は心を気を入れ換えた。
昔、英語学習の際に重宝したDUOのテキスト及びCDを引っぱり出したので、1日15分を英語の勉強に充てようと思う。
ペラペラとテキストをめくってみるとまだ頭に残っている例文も散見され、一年もあればそれなりに思い出せるのではないか。
とはいえ、この勉強をいくらやったところで彼らのように話せる訳ではないが、とりあえず日々着実にDUOによる学習を重ねよう。
27日
「まだ調教は受け付けていらっしゃいますか?」
といったような内容のメールをちょくちょくもらう。
食べ物の話ばかりアップしているからこのようなメールが届くのだろう。
もちろん、受け付けている。
このサイトは今や俺のライフワークの一つだ。
そのような日が来ることをとても想像できないが、もしSM調教に興味を失なう時が来たならばはっきりとサイト上でそう述べる。
それまではもちろん調教依頼welcomeだ。
23日
家で食べられるようなものをわざわざ外食することほど馬鹿らしいものはない。
俺に言わせればその筆頭はさながら親子丼か。
昨今では名店有名店の前ではランチ時ともなれば長蛇の列だが、親子丼は家での再現難易度はかなり低いと言わざるを得ない。
親子丼の列に有り難がって並ぶ人間というのはきっと料理が下手かそもそも料理をしない人種ではないのか。
まあ、一度名店の味を楽しみたいというのであればわからなくもないが、二度三度と長時間並ぶものではない。
家で親子丼を作るポイントは二つ。
一つは親小鍋あるいはそれに近い鍋を用意すること。
俺は洋食用の小さなフライパンを使っている。
丼に盛る時は鍋をスライドさせて盛ること。
お玉ですくい入れては店のあの感じにならないのでダメだ。
もう一つは鶏肉に火を通し過ぎないこと。
鶏肉はあくまでジューシーに仕上げる。
パサパサにしてしまってはいけない。
この2点さえちゃんと守れば丼つゆに使うダシは村上洋子のダシポッドでも十分美味しくできる。
ちなみに俺は出汁効きまくりの甘めが好きなのでミリンを多めに入れる。
玉子の量やトロトロ具合も好きにできるのでどんな店よりも自分好みの親子丼が家で結構簡単に作れる。
それをまあ長時間並ぶとは。
あるいは料理をしない者にとっては丼に鍋の中身をスライドさせるあの技が難しいと思われているのかもしれないが、お好み焼きや広島焼きの返しに比べれば児戯に等しい程の
低難度だ。
わざわざ並ぶくらいなら一度やってみ。
16日
俺流の寿司屋の楽しみ方の一つを伝授しよう。
俺がしばしば足を運んでいる市場寿司にはホタルイカ沖漬けの握りがある。
値段は2カンで200円。
ホタルイカ沖漬けは俺の大好物でもあるのだが、市場寿司では握り1カンにつき2匹のホタルイカが軍艦巻きとして供される。
つまりホタルイカ沖漬けの握りを注文すると1回につき4匹のホタルイカが出てくるわけだ。
俺はその4匹のホタルイカの内2匹を直接端で食べて日本酒の肴とし、残り2匹を普通に寿司として食う。
よって、たったの200円でかなり楽しめてしまう。
せこい食い方であるのは俺自身大いに自覚するところだ。
一流店でこんな食い方をしたら大将から何か一言チクリと言われるだろう。
けれども、俺はホタルイカの沖漬けが大好物であって、ならばこそ口に運ぶのは一匹で十分だ。
そもそも、ホタルイカ沖漬けというのは味が濃く、かつ、かなりしょっぱいので、一口一匹こそが正しい食べ方であると思う。
よって2カンで、ホタルイカ〜日本酒〜ホタルイカ軍艦巻き〜日本酒〜ホタルイカ〜日本酒〜軍艦巻き〜日本酒、という8連コンボが成立する。
寿司2カン200円で驚異のコストパフォーマンスだ。
俺は同じく2カン200円のアジとイワシが大好物でもあるので、俺としてはただただ好きなネタを幸せ気分で楽しんでいるだけなのだが、かなりドケチな客に見られてもおかしくはない。
幸い、市場寿司はこんな俺を長年快く受け入れてくれている。
感謝。
9日
先日、再び1カン100円のブリトロ柚子大根のせを食べにスシローへ行ってきた。
午後3時のスシローはガラガラでほぼ貸し切り状態に近い。
待たずに済むのは嬉しいが、あまりに空いているスシローもいかがなものか。
レーンには寿司が申し訳程度に流れているだけで、ガラガラの店内と相まってあまりにも殺風景だ。
こうなると一つ問題がある。
このような状態であれば食べたい寿司はパネルでオーダーするしかないわけだが、そうするといわゆる外れ皿に当たる確率が跳ね上がる。
血合いの部分、スジの部分、ネタが小さい、ネタが少ない、ネタがシャリから落ちている、ネタの色が良くない...等々、スシローには結構外れ皿が多い。
反面、明らかに当たり皿というものもあり、店内が混んでいればそんな当たり皿が流れてくることもしばしばで、つい手に取ってしまうものだが、午後三時のスシローでそれは望めない。
結果、パネルで注文したブリトロのほとんどが外れ皿という始末。
いくら1カン100円とはいえ徐々に頭にき始めたので早々に席を立った。
やはりスシローへはある程度混んでいる時間帯に行くべきだな。
いい勉強になった。
2日
最近、麺類を静かに食う奴が俺の周りで急増中だ。
おそらくは日本全国同じようなものだろう。
先ず最初に若い女性、次にそんな女性たちから下品と思われたくない男たち、そして社会全般に広がるといった流れか。
急に気にし始めたのは外国人観光客による気になる日本人のマナー報道を受けての影響も少なからずあると思われる。
なぜ海外の主流がそうだからといって、それに合わさねばならないのだ。
郷に入れば郷に従えの諺の如く、俺だって海外では麺はすすらない。
けれども、ここは日本だ。
好きなように食わせろ。
若い連中がこぞって麺を静かに食い始めたので、あと10年20年もすればまるでイタリア人みたいに静かに食わなければならなくなってくるだろう。
こうなると一番困るのは落語家やな。
蕎麦だけは例外、などと言っても外人には通用しない。
名人が蕎麦をたぐる場面は落語の華の最たるものだが、あと50年もすれば下品などと言われて噺から消えてしまう危惧もあろう。
けれども、麺を無音で食べるというこの流れはもう誰にも止められない。
よって俺は最後の砦の一人としてラーメン屋では汁を飛ばしながらいつも以上に豪快にすすって食べるようにしている。