2020年2月
27日
猛烈に台湾に行きたい!
日々、俺はその衝動と戦っている。
このところ毎年三月になると台湾へ行くのが恒例であり、今年は介護で行けないというのもその理由の一つには違いない。
けれども、話はもっとシンプルだ。
今、親父は西洋薬ではなく漢方薬を服用している。
よって、処方されたそれを毎日家で煎じる必要があるのだが、その煎じる最中の匂いが台湾を思い出さずにはいられない。
台湾の代表的な匂いといえばコンビニの台湾おでんと夜市の臭豆腐。
そもそも台湾おでん必須の八角はいかにも漢方薬に使われてそうであり、それら匂いはどこか漢方的で、台所へ行くたびに俺は台北の街を思い出さずにはいられない。
思い出すのは時に夜市の人混みであり、リムジンバスを降りた時の台北の匂いであり、漢方薬屋が軒を連ねる油化街の通りであったりと、いろいろな記憶が半ば強制的に蘇る。
こうなるのは海馬と嗅覚を司る脳の部位が近いからという説もあるようだが、とにかく匂いというものはやたらと過去の記憶を刺激する。
こういう表現も何だが、親父が生きている間は毎日強烈に台湾を思い出しつつも行くことができないというジレンマに陥るしかなさそうだ。
いつの日か来るべき時が来て、やるべきことを粛々とやったら、俺は真っ先に台湾へと向かうだろう。
13日
俺の住む町にはいま流行りの高級食パン屋が二軒ある。
一軒は乃が美、もう一軒は銀座に志かわ。
両者食べてみたが、どちらが好きかと問われれば俺はに志かわだな。
何も付けず乗せず、ただ分厚く切ってそのまま食べるのが好きだ。
買った当日のやつが特に美味い。
親父もすっかり高級食パンの味を覚えたようで、朝食に一枚二枚とても美味しそうに食べている。
パンの友に豆から挽いてコーヒーの一杯でも入れてやればいいのだろうが、俺はコーヒー紅茶は全くたしなまない。
代わりにDAISOで買ったココアを一杯。
それでも親父は十分に満足してくれている。
つまりは甘いモノ好きなのだ。
高級食パンは少しでもつまみ食うと止まらなくなるので注意が要る。
俺は基本朝昼抜きなので昼下がりにはすっかり腹も減っており、この時間にうっかり摘むとそのまま半斤ほど胃に消えてしまうことになる。
ちゅうか、そういうことがあったのだ。
両店はとても近い距離にあるので、年内にいずれかが撤退するだろうと予想している。
その反面、俺は高級食パンブーム自体は結構長く続くのではと思う。
高級とはいえ、たかだかラーメン一杯程度の値段だ。
庶民のたまの贅沢として、あるいは手頃なお持たせとして、息は長いのではないか。
俺もすっかり味を覚えた一人として、月に一、二斤程度は食べたいものだ。
6日
会社を辞め、更には、以前より早く毎朝4時に起きているというのに、それでも一日があっと言う間に過ぎてしまう。
「会社を辞めたらかなり時間に余裕ができるやろな」
と、そんな期待した風には全くならなかった。
いくら稼いだところで収入は常に不足すると言うが、どうやら時間も常に不足するようだ。
とはいえ、俺の場合かなり贅沢な時間の使い方をしているので、足りなくて当たり前かもしれないが。
そんな時間の筆頭が新しい習慣となったオーディブル・ジョギングである。
本来であれば、太陽の下、外の空気を吸いながら芝生のある公園であれこれ運動したいのだが、介護もあってなかなかそうもいかぬ。
俺の親父は自力で立つことができないので、何かと世話が要るのだ。
そんなわけで、毎日、家の玄関でその場走りのジョギングを一時間行い、その間、amazonのオーディブルを利用して本を聴いている。
名付けてオーディブル・ジョギング。
運動にもなり、読書もでき、おまけに夕食も旨い。
まさに願ったり叶ったり。
会社勤めの頃には決して持てなかった時間の一つだ。
「絶対にたるんだ時間は過ごすまい」
そう思って会社を辞めたので、新しい習慣として真っ先に運動を取り入れたわけだ。
「さて、三日坊主になるか否か?」
などと思いつつ始めてみたが、今では一日の中でかなり楽しみな時間になっている。
ということはこのまま続きそうだ。
問題はオーディブルのコンテンツ。
毎日きっちり一時間聴くので、内容や著者に興味があっても短い本には触手が向かない。
反対に、収録時間が長いとそれだけ長い期間楽しめるので、レビューが微妙であっても買ってみようかと思う。
オーディブル会員であれば毎月1個もらえる無料コインを利用して真っ先に買ったのが「チベット旅行記」だ。
収録時間なんと36時間。
俺はそれを80%の早さで再生して聴いているので実質40時間オーバーとなる。
これすなわちオーディブル・ジョギング40日分ということだ。
おかげで連続テレビ小説のように毎日ストーリーを楽しみながら走れているので、こんな時代に生まれたこととAmazonには心から感謝している。
6日
俺が理想の息子のごとく日々甲斐甲斐しく介護しているかといえば、決してそうでもない。
俺は本来戦闘的な性格であり、親父は親父で歳相応に気が短くなっている。
よって、たまに予測不能な理由により突発的に言い合いが始まる。
直近の喧嘩はこうだ...
親父:「明日、町内会で瓶の回収があるから、一升瓶に残ってる酒を容器に移しといた方がええやろ」
俺:「ん?ラベルの付いた一升瓶から注ぐのがええんや。容器に移したらおもろないわ。そんなことしたら味も半減や」
と、この会話をきっかけに酒を容器を移す移さないの喧嘩が始まった。
親父も折れなかったので、とうとう俺も殿下の宝刀を抜いてしまった。
つまり、
「自分でやるんやったら俺もあえて止めはせん。好きにしたらええ。けど、俺に俺の嫌なことをやらせるな」
これで親父も言い返すことができずに一旦は俺の勝ちになるのだが、宝刀を抜いてしまった後の後味の悪さといったらない。
身体の不自由な者に対して俺はかなり卑怯な言葉を放っているのではないのか?
そう思わなくもない反面、俺が宝刀を抜くのも無理もないとも思う。
今回の場合で言えば、せっかく日本酒を一升瓶で買ったのであれば、最後までそこから注いで飲みたいではないか。
しかもこの一升瓶は正月用に買った高級酒の残りであり、なおさらだ。
それを残り少ないからといってタッパーに注ぐのはあり得ない。
そうだろ?
けれども、いくら正論を吐いたところで後味の悪さは拭えない。
つまりは俺が悪かったのだろう。
それを認識した上で、俺はたまに激突することも必要だと都合良く思っている。
俺が一方的に我慢したのではストレスが溜まるではないか。
まあ、できるだけ宝刀は抜かぬようにしよう。