31日
とある温泉に一人でのんびり浸かっていると、何やら急に若い女性の声で騒がしい。何だろうと思う間もなくモデルのような美女軍団が男湯にぞろぞろ入ってきて湯船に浸かるわ体を洗うわで、まさにハーレム状態となった。「ここは男湯のはずだが?」と隣の美女に問えば、「いいの、私たち特権階級だから」と答える。さらには「そんなことより、あなた、宿ではたった一人の男よ。今夜はわかっているわね」と言う。改めて辺りを見れば裸体の美女皆俺に注目しているではないか。ならば俺も男よ、百人斬りとはいかずとも、せめて十殺男子の本懐...などと血がたぎったところで猫の喧嘩により目が覚めた。なぜに後一時間眠らせてくれなんだ。
30日
例えば絵の具を溶くとき、墨汁を薄めるときのための水差しを道具屋筋で買った。従来は只のガラスコップであったのが今回からは松茸土瓶蒸しに使う例のあれだ。普段は水差し、時に土瓶蒸しと一石二鳥なので我ながら妙案である。おまけに蓋もあるので水に埃が入らない。墨や絵の具に若干香りが移ることもあり得るが、それはそれで風情としておこう。松茸の土瓶蒸しなどそうそう食えぬが、エリンギと必殺永谷園でそれっぽいのができる。単純に食器が豊かになると食事もより楽しい。今まで欲しいものなど特になかったが、人間的に惚れ込んでいるせいもあり、魯山人の器が欲しくてならない。物によっては庶民でも手の届く値段なので頑張れば一つくらいは買えぬこともない。そうなるとやはり茶碗かビールジョッキだろうか。まあ、いずれは。
29日
昨日は一日部屋で絵を描くつもりだったが、あまりの天気の良さに水尾へ散歩に行ってきた。JR京都駅から福知山線で約30分、トンネルを越えるといきなり景色は渓谷美へと様変わりし、何でこんなところに駅があるのかと毎回思わずにはいられない保津峡駅にて電車を降りる。保津川に架かる鉄橋がそのまま駅になっており、俺が知る限りにおいてこれほど眺めの美しい駅はない。無人の改札を出ればいきなり山奥なので話が早い。そこから水尾川に沿って亀岡駅までのんびり3時間ほど歩くわけだ。清流のせせらぎを聞きながらの散歩は本当に気持ちがいい。水筒は不要だ。喉が乾いたらそこらの岩清水を飲めばいい。苔から滴る水は本当に美味しく、そもそも周辺は昔からそれと知られた名水処で、時にはこれで湯を沸かしてカップヌードルも食べる。小一時間で陸の孤島とでも言うべき水尾の集落に着くが、ここに宿がないのは惜しまれる。ただし、複数で予約すれば立ち寄りでの柚子風呂や料理は楽しめるようだ。更に小一時間で谷川池に出るが、ここで毎回長めの休憩を取る。だだっ広い池に一人でいると少々不気味な感じがするのだが、俺にはそれがたまらなく魅力的だ。今回は池のほとりを奥まで行ってみると塚を発見した。昼寝をしたら気持ちいいだろうとは思うものの、池から何かが這い上がってきそうな雰囲気もあり寝るまでには至らない。いつかここで油絵を描きたいと思う。池の辺りから道によく栗が転がっていたので、それを回収しつつ歩を進める。生栗をかじってみれば、甘みはないもののカシューナッツのようにとても触感がよく、10個ほど食べた(注:後で腹を壊したなどということはない)。どんぐりも食べてみたが、こちらはいまいち。こんな場所なので熊注意の看板もあるのだが、俺は特に気にしていない。途中、左に折れれば有名な明智越えがあるが、少々骨が折れそうで未だ行ったことはない。山から出ると毎回寄る店がある。先ずは肉屋「マタギ」。名前が良いではないか。熊肉さえ買えそうな屋号だが、残念ながら営業中に当たったことがない。卸し専門とあるので俺などには売ってくれないかもしれないが、とても気になる店だ。ここで鴨肉が買えれば最高なのだが。続いてタケモ醤油。ここでは蔵の作りたてを売ってくれる。俺は刺身を食べるときは岩塩かここのたまり醤油を使う。まったりしていて甘味さえ感じる味で、安物によくあるダラ辛さが全くない。最後に昔はどこの田舎でもあった小体なスーパーにてチクワを一本買い、表のベンチにて一服。亀岡駅の売店で缶ビールを買って、懐かしのオレンジと緑の電車を待ちつつ飲むのも毎回の楽しみだ。この一杯が相当に美味い。JR京都まで戻るとお好み焼き吉野に寄ってみたかったが、混んでそうな予感がしたので止めにした。まだ一度しか行ったことはないが、噂に違わず名店だったのでいずれ紹介しよう。
25日
俺がよく食べにいく寿司屋に京都先斗町江戸前かっぱ寿司という店があるのだが、ここで一番好きなのが「鯛皮」。鯛の皮を湯引きにして握ってあり、醤油ではなく職人がたらしてくれたポン酢で食べる。そのもっちり感とさわやかな涼味は夏にぴったりの一品でいくらでも食べたくなるのだが、これは嬉しい悩みとでも言うべきか、その鯛皮は何と一カン60円の激安価格である。その他好きなのは60円と100円の価格帯に集中しており、そこら辺りを集中して頼みたいのだが、なかなかそうもいかぬ。たまには「こはだ」や「はまぐり」なども頼むが、そのどさくさにまぎれて鯛皮をまた注文。ま、いくら好きでも2度ないし3度が限界だろうか。それ以上頼むのは値段に関係なく禁じ手と考えるのが妥当だろう。よほど金があるのか、たまにトロばかりぱくぱくやるのがいるが、これこそ寿司屋にとっては大迷惑といやつで、そもそもトロというのは仕入れ値そのままで出せばとんでもない金額になるので、ある程度サービス金額に設定してある店が多い。魂こもった握りを期待するのであれば、客側としてはそういう配慮も必要だろう。金はちゃんと払うのだからと同じものばかりぱくぱくやるのはいかにも若い話だ。それ以前の問題として、客の入りを見込んで適量仕入れているので、それを一人で独占するわけにもいかない。ちなみにかっぱ寿司の近くに同名のチェーン回転寿司屋があるのだが、店とは何の関係もないとのこと。俺は長年アンテナショップだとばかり思っていたのだが、どうやら勘違いしていたようだ。
24日
最近書店にめっきり切り絵関係の本が増えてきた。というのも今流行の脳を活性化させる効果が切り絵にもあるそうで、ならば俺の脳は日々活性化しまくっているということになる。ピアニストは決してぼけないそうだが、それが指先の繊細な動きにあるのならば俺にもボケや痴呆はないだろう。俺には蕎麦打ちの趣味など要らぬ。生涯現役だ。
23日
続・三丁目の夕日の封切が待たれるが、何故に昭和30年代がこんなにもてはやされるのか。20年代でもなく、40年代でもない、30年代だ。いろいろな意見を聞くこともあるが、俺が思うにそれは破壊の美学ではないのか。日本という国が確かに日本だった最後の時代。あの美しさは、破壊され崩壊する前の断末魔の輝きだ。よって俺には三丁目の夕日というのは実に悲しい映画でもある。今作のファーストシーンは日本橋だと聞くが、川や池、堀などが埋め立てられて江戸の残照をことごとく奪い去ったのも30年代だ。もう少し別の都市開発があったならイタリアにも負けない素敵な都市になっていたかもしれない。悲しいことだ、の一言ではとても済む話ではない。都会から始まった破壊の波は50年代をもって全国津々浦々に及び、よって田舎も死んだ。今回も本編終了後はやりきれない気持ちになるだろう。けれども、日本という国の最後のまばゆい輝きを見ずにはおれない。
22日
サッカー中継を見ていると「なぜあそこでシュートを打たんのだ!!」と思うことしばしばであるが、蚊の飛び始めたこの季節となってはあの心境も分からなくはない。飛んでいる蚊をパチンとやるのもサッカーのシュートもタイミングが難しい。(過去分)
18日
というわけで、今度ミナミへ行ったら道具屋筋でさんま皿を買ってこようと思う。本来ならば魯山人のまな板皿でもあれば最良なのだが、道具屋筋の食器類もなかなかに頑張っている。何より安い。安物=悪かろう、と安直に判断するのは早計だ。要は100円であれ100万円であれ、気に入ればそれでいい。例え100円ショップの皿とて使い込みによっては逸品になりうる。道具屋筋では数十万円はしそうな尋常ならざる雰囲気の器も値札を見れば数千円である。その他千円出せばそれなりに楽しめる器が買える。確か800円で備前の良さげなさんま皿があったはず。行ったついでに以前から狙っている美濃織部焼きの1,200円の器も買おうか。それくらいの金額ならさっさと買えと言われそうだが、買ったはいいが実際使わない、そういう買い物はしたくない。いつでも行ける店で確信得ぬ品を金にものを言わせてさくっと買ってしまうのは非常に幼稚な買い物であり、人間にとって大切な「想像する」「考える」ということを単に放棄しているに過ぎない。たかが皿、されど皿、一事が万事、だ。三度我慢して尚あの皿が頭に浮かぶということはもはや迷わずに買うべきだ。織部焼きの特徴である緑が美しい器なので色彩学的に言えば赤、つまりマグロの刺身など食うときに最適だろう。色の主張が強い器なのでその他色彩的にいろいろ楽しめそうだ。どんな料理であれとりあえず白の器に盛っておけばそれなりに見えるし、収納の都合上多くを持てない俺としては自然この組み合わせが多くなってしまうのだが、初購入の織部焼きでちょっと攻めてやろうかな、とそんなことを考えつつ今日も幸せに過ごしている。
17日
壊れて火が着かなくなったので突然我が家に最新式のガスコンロが来た。火力の強さもさることながら、今までなかった魚焼きグリルが付いているのが嬉しい。早速さんまを焼いてみたが、実に簡単に美味しく焼けた。七輪とまではいはないが、ちゃんと落ちた油の煙で燻されていい具合だ。皮もぱりっと仕上がっている。ありがたいことに、近所のスーパーでは刺身にも使えるキラキラ銀色に輝く生さんまが毎日一匹100円で売られているので、今秋は大いに食うことになりそうだ。グリルで更に嬉しいのが一匹丸々焼けること。従来は上下半分に切って焼いていたが、これでは見た目に面白くないし、実際食べても味が落ちる。ホットドックを半分に切って食べてもイマイチなのと同じだ。週末あたりに時間があれば刺身にもチャレンジしてみたい。旬のものを食べるというのは経済であり、何より美味しい。新鮮な焼きさんまに刺身、俺の理想の食卓なり。
16日
佐藤浩市が部下と東京湾の屋形船で天ぷらを食べる、というラガーのCMが流れているが、これは昨日のクルーザー寿司とは似て非なるものであることいちいち言を待たない。屋形船に釣り師が同乗しているとも思えぬし、ネタは出港前から冷蔵庫の中にあるのだろ。東京湾の屋形船で中国産のあなごの天ぷらを食わされた日には、ただ雰囲気を以てそれっぽく見せかけているだけの本末転倒と言えよう。一昔前に出版されて話題になった「東京いい店、やれる店」に名を連ねる店々と和洋の違いはあれ実質的な差違はない、とは言い過ぎかもしれないが、食べ物というのは何を差し置いても先ずは食材の善し悪しが第一だ。せっかく船下に天然のあなごが泳いでいるというのに何故に冷凍なのか。と、ここまで言い放つからには俺の舌が国産天然あなごと中国産冷凍あなごを見分けられねば話にならないわけだが、そもそも俺が食べ物に小うるさくなってしまったのはこの舌あってのことだろうと自分では思っている。別に自慢ではない。最低限の区別さえできれば、後は大した違いなし。庶民ならばこれが一番経済であり幸せである。残念ながら俺はインスタントラーメン一つ食うにもパッケージ通りにはいかぬ。こだわりか、あるいは時間の無駄か。ただし、抜きたて新鮮な野菜など小分けしてもらったときの喜びは並々ならぬものがあり、この点野菜一つで幸せになれるのは明らかに得だ。
15日
秋だな。食欲の秋。前から考えている酔狂な話を一つ書こう。クルーザーを所有するということは人生成功の証の一つとも言えるが、別に欲しいとは思わぬが、どうせ金食い虫を持つならば俺なら船の内装を寿司屋風にしてもらう。つまりあのカウンターをクルーザー内に再現するわけだ。で、旨い寿司が食いたくなれば雇いの寿司職人、釣り師、船頭、仲居、そして友人たちに声をかける。出航したらビールを飲み飲み、魚の入荷を待つ。釣り師が鯛でも釣り上げれば、「へい、鯛のいいの入りやした!」となるわけだ。それを間髪入れずに捌いて食う。寿司職人の腕が多少鈍かろうが、魚の季節を間違わなければこれが不味いわけがない。銀座長治郎がどれ程のものか知らないが、それよりも自慢できよう。名付けてクルーザー寿司。日本に金持ち多々あれど、俺はこんな話を聞いたことがない。皆、長次郎や新富あたりで美味い寿司を食った気になっているのだろう。甘いな。技などは二の次だ。
11日
夫が帰宅した際に「食事にしますか?それとも風呂にしますか?」という妻の台詞があるが、俺にはこの質問の存在自体が理解できない。風呂に決まっとるやろ。それとも最近の新妻はもうこんな質問はしないのかね?
10日
「もつ鍋屋」はずいぶんいい加減な店だと思う。先ずもって、もつ鍋を3人前頼もうが4人前頼もうが大して量に違いはないものの、レシートにはきっちり一人前分の差が出る。というのも、店で使われる鍋は全て共通の大きさで、二人前頼んだ時点で既にかなりてんこ盛りの状態で運ばれてくる。ちなみにこれは鍋が小さいのではなく、文字通り野菜がてんこ盛りなのだ。そのてんこ盛りは三人前で既に限界と言えよう。更に四人前と言ったところでもやし1,2本、キャベツ1,2枚増えるくらいだ。要するに三人前でちょっと損、四人前でかなり損、ということになる。かといって4人いるのに3人前というような野暮な注文もできぬ。よって、この店は二人で行くべしということになる。注意その二、ここのもつ鍋は野菜ともつの量のバランスが悪い。野菜が多いととるか、もつが少ないととるかは自由だが、結局もつを追加しないことには物足りない。俺は途中で追加するのも面倒なので最初のオーダーで一緒に頼んでいたが、俺の実験によれば、最初に追加しようがしまいが、大してもつの量に変わりがないように感じる。途中で追加すれば目の前で足してくれるので間違いないが(注、その量も日によってバラバラで少ない日もあれば極端に多い日もある)、最初から追加してしまうと追加の量の真相は鍋に葬られる。おそらくは雀の涙に違いない。そんなこんなのもつ鍋屋だが、行かずにはおれない魅力を持った不思議な店だ。行く機会があれば先ずは生レバを頼もう。最高に美味い。
9日
先日、新世界の「もつ鍋屋」に行ったら何と店舗を改装していた。もしカウンターとテーブルの普通の店になったら魅力も半減だ。今では珍しい入れ込み座敷の店内は東京に「駒形どぜう」や「みの屋」があるならば大阪には「もつ鍋屋」あり、そう自慢できる店だった。しかも、料理の好みは各人あろうが、こと値段では完全勝利だ。そんな店が改装ときた。東京人にとって「駒形どぜう」や「みの屋」が改装して新しくなっても全く嬉しくないように、大阪人にとって、少なくとも俺にとって「もつ鍋屋」の改装は全く不要だったのだが、果たしてどうなることやら。さて、その日は「もつ鍋屋」のもつ鍋が食えなかったので、近場の代替え店にてもつ鍋を食ったのだが、肉はもつ鍋屋のそれよりも美味しいと思ったが、やはり俺は「もつ鍋屋」でないとダメなようだ。通い始めて二年弱、気が付けば俺にとってなくてはならぬ店になっている。この店ではオーダーにあたっていろいろな注意点というかテクニックがあるので、また次回にでも書こう。注:現時点では既に改装も済んで営業中と思われる。
4日
盆休みの最後二日は名古屋に行っていた。仔細を話すとなれば味噌おでんや手羽先等食い物のオンパレードになるので、それは止めておこう。いつも食べ物の話ばかりだとは俺も痛感している。名古屋行くとには、行きは近鉄アーバンライナーのデラックスシートと決めている。着くまで約二時間、新幹線と違って騒音防止壁がないので車窓では美しい緑が楽しめ、缶ビール片手に時折美しい川を見かければ「いつかあの場所で野宿を...」などとぼんやり過ごすのが楽しい。あるいは、本を読んでもいいし、寝てもいい。名古屋でのあれこれも楽しいのだが、この道中も大いなる楽しみなのだ。新幹線だと京都からなら38分で着いてしまうので旅情もへったくれもない。例えれば阪急神戸線の梅田から三宮へ行くくらいの感覚で、とても旅をしているという気がしない。最も、帰りは新幹線でさくっと帰ってくるのだが、行きはのんびりで帰りは早いのが俺はいい。で、先日もアーバンライナーデラックスに乗ったわけだが、乗車前に鞄に本がないことに気づき、近場の小体な書店で文庫本を一冊買うことにした。じっくり選べるほどの数はなく、適当に手にしたのが平積みになっていた「007カジノロワイヤル」だった。映画の原作である。007の小説を読むのは初めてのことだが、これがなかなかに面白く、気が付けば名古屋に着いていた。評判のスパイ小説は一通り読んだし、米ソ冷戦が終わってからは新作の出にくいジャンルになってしまったが、これで新しい宝の山を見つけた感じだ。ちなみに、好みの小説は各人多々あれど、ことスパイ小説のジャンルに限っては誰もがジョン・ルカレ「寒い国から帰ってきたスパイ」が最高だと言う。もちろん、俺もそう思う。
3日
作曲は無理でも作詞なら俺にもそれなりにできるのでは?と微かに思わなくもなかったが、録画してあった阿久悠の追悼番組を見るに、「ああ、俺には全く無理だ」と悟った。それほどに阿久悠の詩は多芸多彩だ。最近、芸術において「本物」あるいは「偽物」ということを良く考えるのだが、俺にとって「本物」の条件の一つに量産があり、阿久悠は見事にそれを満たしている。しかもクリエイターが陥りがちな同パターンを繰り返してしまう作り癖というものがない。そりゃあ、追悼番組も流れよう。どうも番組を見てから彼の作詞した歌が頭の中で流れ続けているのだが、こういう現象はきっと俺だけではないはず。
本日22時よりNHKにて魯山人の器を特集する番組があると今知った。詳しい内容は知らぬが、このタイトルだけで絶対に見るべき番組だと判断する。もちろん俺は最高画質で録画しての永久保存だ。
2日
書きたいことも多々あれど、消してしまうのも勿体ないので今日からしばらくはアップしなかった雑記を残しておこうと思う。
今夏は野菜をよく食べた。特になすと満願寺唐辛子。俺流の焼きなすの食べ方を伝授すると、洗ったなすの先を取り胴を真っ二つに割る。後は適当に焼いて、それを塩で食う。それだけ。この食べ方が一番美味しい。焼きなすといえば揚げたり、皮を剥いたり、おろし生姜を添えて醤油で食べたりが定番だが、そういうのは多少なりとも日が経ったなすでやればいい。新鮮ななすは皮ごと塩で食うに限る。ちゅうか、最近特に思うが、とりあえず新鮮な食材が手には入ったならば、先ずはそれが塩のみで食えるかどうかやってみるべきだ。この食べ方こそが人間の手では絶対に作り出せない自然の妙味を最も味わうことができる。隣近所からもらったもぎたてのなすびをいきなり麻婆茄子ではなすびが泣く。ただブチ割って焼いて食えばいい。豆腐も良い豆腐は塩だ。蕎麦も。肉も。魚も。刺身はまぐろ等醤油の方が旨いのもあるが、概ね新しければ塩に軍配が上がる。特に白身系は味の調子高く、スーパーの鯛刺しでもいいから一度岩塩で食ってみればいい。醤油ではいまいちはっきりとしない鯛の滋味がはっきりとわかるようになる。塩より更に良いのが、味付け一切なし。代表はトマトか。トマトといえば反射的にドレッシングやマヨネーズをぐちゃっとやってしまうのは現代人の一種の病気と言ってもいいだろう。
1日
ようやく秋めいてきた。秋の夜長とは言うが、サマータイムが導入されればそんな言葉も消滅だ。サマータイムなど日本人の豊かな感性を鈍らせる悪習にしか過ぎない。俺は断固反対したい。
翌月の雑記へ