SM 110.com 携帯版トップページへ
SM 110.com パソコン版トップページへ
今月もボツ雑記特集
26日
俺が中学の時は各自弁当持参だったのだが、俺の弁当はほぼ常にソーセージと卵焼き弁当。まあ、おかずの二大巨頭が入っているので文句も言えないわけだが、年がら年中これではさすがに飽きがくるし、周りの品数の多いカラフルな弁当が羨ましくて仕方がなかった。「もう少しおかずの数を増やして欲しい」とある時頼んだら、翌日、弁当の蓋を開けいたら糸が引いているではないか。何とソーセージと卵焼きの横に納豆があった。「これではヘタに頼めへん....」と苦笑しながら食ったが、今の時代なら周りにばれぬよう慌てて蓋を戻すしかないだろうな。ちなみに、おでんの翌日は必殺のおでん弁当だった。コンニャクやジャガイモなど全く飯のおかずにならなかったが、反面、冷たいゴボ天や厚揚げなどは最高に飯がすすんだ。最も、ビジュアル的には最低だったが。まあ、今となっては全ていい思い出だが、俺が人並み以上に食い物の味や見た目にこだわるようになったのはこういう体験の反動であることは間違いない。
22日
作業中、見るともなしにTVを点けていたのだが、ケンミンSHOWというのはなかなか面白い番組だな。ポールウインナーは日本全国どこの家庭でも冷蔵庫に常備されているものだと思っていたが、これが関西限定であったとは驚きだ。他の地区ではそもそも売られてもないという。日本全国どこの街に行っても似たり寄ったりのつまらん国に成り下がったと思いきや、まだまだあれこれご当地色は健在のようで嬉しくなってくる。俺が思うに、最も個性が強いのが大阪、無個性の集まりが東京。日本の二大都市にあってこの違いは面白いと思うが、どうも昨今大阪においても東京風の話し方をする若い世代が増えたように思う。その内みな「○○じゃん」などと言い出すのだろうか。生粋の大阪人としては決して耳障りが良いとは言えぬが、あれもお洒落の一つなのだろう。まあ、流行など俺には関係のない話だ。
俺が今まで食べた中で美味しかったご当地食BEST5を挙げれば1位静岡おでん街にある「みなみ」のおでん、2位(これをご当地と言えるかどうかはあれだが)東池袋にあった旧「大勝軒」、3位尾道ラーメン「朱華園」、4位札幌「だるま」のジンギスカンに付いていた新たまねぎ、5位博多長浜地区の屋台ラーメン。ちなみに最も不味かったのは岡山の某老舗で食べたデミカツ丼だ。俺が半分残すなど余程のことである。
15日
遠くの親戚より近所の他人という諺があるが、同様にして遠くの名店より近くの並店だと俺は思う。最近はネットのお陰で、どのジャンルであれ、やれ何処そこの○○が旨いとなれば遠出して、更には行列までして食べたりするが、「それはあくまで情報を食べたに過ぎない」とは江戸好き蕎麦屋酒好きで知られた故杉浦日向子さんの言葉だ。これも何かで読んだのだが、その店を知るならまず最低三回は行く必要があるという。最もな話だ。素材の仕入れ、調理人のローテーション、麺業界ならその日の湿度も重要となろう。得てしてマニアは一食で点を付けたがる。次にいつ行くかわからないそんな店よりも、店に入っただけで「らっしゃい」と笑顔で出迎えてくれる馴染みの店の存在の方がありがたい。家の近所にある飲食店、それは人生における資産でもある。不動産価格には影響せぬが、近所に名店がある場合、それは地域の宝と言ってよい。
11日
昨年末体調不良で数日寝込んでいた。おかげで予定していた金沢と富山を巡る旅行を中止するはめになったが、その見返りとして布団の上で悟ることが多々あった。親を他人と思え。これもその一つだ。禅か何かでこういう教えがあったようにも思うが、俺はそれを体験的に悟った。俺が伏っている間、親父はお粥を作ってくれ、下着類も洗ってくれた。これを親だから当たり前、などとは決して思ってはいけない。敢えて彼を他人とし、心より感謝する。他人であれば誰がここまでやってくれるものか。そこから自然に感謝の念が生まれてくる。昔の日本人はきっとこんな考えが当たり前のようにできていたのだと思う。
8日
書店で大人の趣味系の雑誌を見ると相変わらず「日本全国寝台列車の旅」などといった特集が相変わらずよく組まれているようだが、何と言っても俺は今年のGWに日本海とトワイライトエクスプレスに乗車しているので、以前のような羨望を持って本を取ることはなくなった。今では「そうそう、これこれ」といった具合だ。一度しか乗ったことはないが、俺は車内を楽しみ倒したので、常人の2回分くらいは乗ったといっても過言ではない。休みの都合や予算、そして何よりスーパープレミアムなチケットゆえに、もうあんな旅は二度とできないかもな。ページをめくるとそんな一抹の寂しさもある。それでもねぶた祭りは絶対一度はこの目で見てみたいし、札幌のジンギスカンだるま・佐藤水産のおにぎり・涅槃のスープカレー、旭川のジンギスカン大黒、函館のラッキーピエロのハンバーガー・ハセガワストアの焼き鳥弁当などもまたぜひ食べたいとは思っている。飛行機なら十分可能だし、何よりパックで行けば信じられぬくらいに安い。けどまあ、今度大きい旅行をするとなれば行き先は台湾だな。目当てはもちろん屋台だ。胃が丈夫な内に食い倒しておきたいと思っている。
4日
忘れもしない10代最後の夏の話、俺は当時付き合っていた女性と夏祭りに行った。彼女が祭りの途中で小腹が空いたからと夜店のたこ焼きを買ったのだが、食べる前にトイレに行きたくなったようで、俺はたこ焼きを手にトイレの前で待っていた。トイレには列がありなかなか戻ってこない。待っているうちにソースの匂いに食欲を刺激されて8個あった内の4個をつまんで食べた。と、戻ってきた彼女が半分に減ったたこ焼きを見て、「どうして私のたこ焼きを半分食べたのよ!」とぷりぷり怒り始めたのである。その後も一向に機嫌は直らず、その子は恵まれた容姿ゆえに男からは人気があったのだが、俺は申し訳ないと思うよりも何とくだらない女と付き合っているのだろうかと自分が嫌になった。結局以後会うことはなく別れたのだが、原因がたこ焼き4個とは笑える。この一件以来女性の本質というものを意識するようになった。そして、出た結論としては、結局付き合った相手の善し悪しは別れて始めてわかるという考えに達した。付き合っていたときはそこまで思わなかったのが、別れた後で「あれは本当にいい女だった」と思うこともあれば、その逆もある。付き合っている最中にそう思えれば幸せなことなのだが、人間、そういうことが実に難しいものだな。
1日
もうこういう感覚は随分長い間味わっていないが、昔は放浪やら仕事やらで半年一年ほど自分の家に帰らないということがちょくちょくあった。そんな時、久しぶりに我が町や我が家に帰ってきたときに決まって感じたのは、懐かしさはもちろんのことだが、全ての見知った光景が小さく見えたものだ。あれは自分が多少なりとも成長して今までの器が狭くなったからなのか?だとすれば、俺の人間的成長は久しく止まっているということになる。いつもの町、いつもの部屋、いつもの大きさ、そこに違和感など全くない。違和感どころかむしろ安心感で、これはやばいことだな、と思う。何事も一カ所に留まれば、濁り、淀み、澱が溜まる。どうも俺は安定という言葉が嫌いなようだ。最も、あと数年すれば俺は自ら荒波に飲まれる覚悟で環境を変えるつもりなので、今はただ静かに養分を蓄える時期かなとも思う。これは言い訳だろうか。
翌月の雑記へ